kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

表面だけ理解して尊大な態度をとる日本人とならないために

日本人は表面だけを見て本質を理解できない人達です。海外の物、例えばiPhonを分解して「何だ、こんなものか。大したことはない(これなら俺でも真似できる)。」とうそぶくのです。

 

日本人は、製品のコンセプトや、それぞれの形状や技術が全体に寄与する意味、その製品が世にもたらすインパクトを理解し想像することができず、ただ表面だけ捉えて理解したつもりになっています。所詮人間が作ったものですから、他人も理解できるのは当たり前です。しかし日本人は自然の法則を解明して理論を打ち立て、そこから全く新しいものを創造するということは出来ないのです。

 

「日本人は木ではなく森全体を見て包括的思考をする」という考えもありますが、日本人は木も森も見えない、すなわち本質を分析することも出来なければ、俯瞰的に全体を見て創造をすることも得意ではない人々です。

 

高名な学者の論文もパクったものの切り貼りのような内容だったりします。プロパガンダを垂れ流す御用学者や、学者をたばねるボスザル、助成金ゴロや、何もしない人が大勢いる一方、その下で非正規のポスドクが大量にいるのです。

 

というのも能力のある人が社会で成功しても、その才能を使って、どれだけ楽をし安泰な生活を送るかということになってしまいがちだからです。日本人には天与の才能を他人のために活かそうという発想はあまりなく、頭が良かったり技に優れているのは努力した結果だからとか、自分が優秀だからと考え、全部自分の為に使うべきだと思っています。

 

そのためか日本人には謙虚さがなく傲慢です。世の中には他人が作ったものなどに興味の無い人が沢山おり、猿真似が得意だからといって、それを自慢するなど、傲慢であるだけでなく滑稽ですらあります。日本人が作るものの多くはコンセプトが平凡で、それにただ流行の技術を組み合わせてみましたというものでしかありません。

 

それなのに彼らは「日本人は手先が器用で頭がいいのだ」と言い続けています。知識と技術が世界に行きわたった現在、このままでは日本人の存在価値はありません。

システムの単なる部品とならないためには?

言うまでもなく日本では個性を殺して集団の一員となることが常に求められます。それを拒むものはアウトサイダーであり、あらゆる道を断たれ、日蔭者として生きていかなければなりません。

 

150年前に官僚独裁国家として生まれた大日本帝国は、効率的なシステムとして国全体を動かすために、末端の人々に至るまで、生きた機械の部品として組み込む必要がありました。

 

そのために個性を殺し、国民を均質化する必要があり、当時近代国家でも珍しかった国民皆教育が始まりました。よく訓練された忠実な兵士や労働者を作り上げると同時に、均一化が進むことにより、コミュニケーションが効率的になり、また部品としていくらでも取り換え可能な存在となります。

 

人において自由な意志力と想像力は限りないものであり、人が成長するための重要な要素です。しかし組織においては邪魔なものです。意志の力と想像力を削ぐには、集団のなかで徹底的に抑圧することが効果的です。人間の精神力の可能性は、過酷な環境や命令でも果てしなく「耐え忍ぶ」という点においてだけ重要視されることになります。

 

こうして日本は世界強国に名を連ねたり、経済大国として名をはせるまでになりましたが、ほとんどの個人は顔の無い不気味な存在のままです。

日本でも中央集権の力が薄れた戦国時代においては様々な文化が花開き、経済が急速に発展しましたが、軍事独裁政権や官僚独裁のもとで日本人の創造性はすっかり萎えてしまったのです。

 

日本はこの150年間に世界に誇る近代文明を築き上げてきたようにも思えますが、それらは西洋から節操なく取り入れたものをベースに国家主導での急速な工業化や人員動員によって無理やり発展させたものに過ぎません。その裏には多くの無名の日本人の犠牲と労苦があります。

明治の元勲や大正時代の文化人が仮に現代の日本を見て「素晴らしい、やはり日本人は優れて創造的な民族だった」と思うでしょうか。

あるいは元勲は「我々の作った官僚機構は未だに機能している、素晴らしい」と思うかもしれません。日本の民衆は自主性と創造性を失いましたが、官僚による統治システムは大衆操作のノウハウを膨大に蓄えており、その牙城はゆるぎないのです。

排斥されずに、祭り上げられる日本人となるために

日本人というのは何処にいっても、日本人同士で足を引っ張り合うのが好きな人々です。

例えばある作品を投稿できる海外のサイトがあって、それに関する匿名掲示板もあるのですが、そこには海外の投稿者の話題はほとんどなく、あるのは「あの日本人がズルをして点数を稼いでいやがる」といった怨嗟ばかりだったりします。

 

日本人にとっては、海外で何かショボイ賞を貰ったり金で買ったキャリアで、華々しく凱旋帰国して日本で儲けるというのが最も一般的なサクセスストーリーです。

 

たった1回の優勝であっても、日本に帰れば「世界が認めた日本のサムライ」とか、「世界一のXXXX」とか、「世界最XのXXX」などと、広告代理店、マスコミが祭り上げてくれて国民からカネを巻き上げるメシのタネにしていきます。

 

しかし当の日本人が海外で本当に成功して海外での活動が多くなってしまうと、逆に日本では見向きもされなくなってしまうのです。批評家達によって悪口を書かれるのはまだ良いほうで黙殺されて無かったことにされてしまうこともあります。

 

結局、この国では広告宣伝塔になってくれるそこそこの人間であれば実力はどうでも良いのです。国やその道の権威、メディアのお墨付きがあれば、この閉じられた小さな世界において、皆が囃し立ててくれて成功への道を歩むことができます。

 

いったんヒエラルキーの頂点に達してしまえば、太鼓持ちや馴れ合いによってその分野における地位はくつがえることはなく死ぬまで安泰です。だから大抵の日本人は「夢は海外」と言っても常に日本を意識しており、そそくさと日本に戻ってくるのです。

小手先の対策で失敗する日本人とならない為に

日本人というのは根本的な対策をせずに小手先の策で済ませようとする傾向の強い人々です。個人としてもそうですが、組織となるとさらにこの傾向が強まります。

 

東京メトロの一部でクラシックなどの音楽を流す試みが始まったそうです。

確かに音楽療法というのもあり、リラクゼーションを目的とした環境では効果があります。しかしリラックスしようと意図して自分に合った音楽を自主的に聴くのと、ストレスフルな環境で強制的に音楽という新たな騒音を聞かされるのとは、まったく違います。

 

これを考えた担当者は想像力と思考力が足りなかった可能性もありますが、それ以上に世間にアピールできるコストの安い安直な対策を求められ仕方なく、このような馬鹿げた案を出し、それがそのまま通ってしまったのかもしれません。

 

通勤ラッシュ時のトラブルの増加やそれに関わる駅係員の負荷をどう解決するかは難しい問題ですが、都心への一極集中、時差通勤者や在宅勤務が少ない事、通勤者に見合う輸送量が足りていないという根本的な問題を抱えていながらも、それを解決しようと行動を起こす人はいません。

むしろそんな事をしたら国民の負荷は減っても経営者の利益が少なくなってしまいます。だから今日も利用者の利便性を考えているようなフリをしながらも、愚民どもからむしりとることに余念がありません。

 

(もし仮に石油タンカーから史上最大規模の原油が流れ出して日本の近海が汚染されるような事故が起きたとしても、お魚は洗剤で洗って加工したり焼き魚にして出せば分からねえだろって考えそうな人々ですね(笑)。)

被害妄想気味で執念深い、みっともない日本人とならない為に

日本人というのは被害妄想が強く執念深いところのある人々です。

例えば狭い場所で男性の肘が当たったら女性が肘を押し返しているのを見ることがあります。最初に肘が当たったのは言わば過失なのですが、押し返すのは故意です。実際にこういった事で痴漢呼ばわりされて男性が逮捕されることがあり、女性は「絶対に許せない、厳罰を受けて欲しい」と言うわけです。

 

女性だけでなく日本人というのは「やられたらやり返すべきだ」と潜在的に思っている人が多いように思います。

プロスペクト理論というのがあって、人間は利益を大きくするよりもできるだけ損失を最小限にしようと行動する傾向があります。さらに損失ばかりで回復の見込みが薄くなると一か八かの行動に出ることがあります。日本人というのはことのほか損失回避傾向が強いのかもしれません。

 

ちょっとでも損をするのは嫌なので、買った製品に瑕疵があればすぐにクレームを入れます。不利益を蒙ったら復讐しないではいられないのです。さらに追い込まれると自暴自棄の行動に至ることもあります。

 

戦国武将の直江兼続があるとき、誤って無礼打ちにされた遺族から死人を返せと訴えられたのですが、直江兼続が慰謝料で納得してくれと言っても、遺族は相変わらず生かして返せとい言い張り、仕方なくその遺族を打ち首にしたというエピソードがあります。

 

このように日本人は昔から、大人でも聞き分けのない駄々っ子のようなところがあり、他人によって損をこうむったらその分をあがなって貰わないと納得しないところがあります。

日本では敵討ち、仇討ちというのが古くからあり執念深く相手を追い回しました。現在でも日本人は自ら手を下さないものの、死刑制度や民族的な恨みに基づいた戦争、権力や公務員による弱者への暴力や虐めが大好きで、これを肯定しています。

人が転落する様を見て嘲笑うのも大好きです。他人が被害をこうむり自分より下になってようやく安心するのです。

 

もうひとつ指摘しておかなければならないのは、日本人の被害妄想のひどさです。病気というほどではないのですが、外国がこの美しい日本を奪おうと攻めてくるので一致団結して戦わなければならないと思い込む傾向があるようです。

それは全くの事実無根ではありませんでしたが、そういった日本人の傾向を利用して為政者は日本人を集団として上手く使い私利私欲を満たしてきたのです。

 

子供向けの番組、古くは「ウルトラマン」から「エヴァンゲリオン」、そして最近では「進撃の巨人」などの内容を簡単にまとめると、どれも理由は分からないが侵略者が突然攻めてきて、登場人物は深く考える間もなく戦わなければいけないというものになっています。

必ずしも洗脳の意図があったとは思いませんが、日本人の「普遍的無意識」のなかに、こういった被害妄想が深く根を張っているように思われます。

 

日本人を貶めることが本ブログの趣旨ではなく、日本人には是非とも真実に目覚めて欲しいと願っているのですが、こういった攻撃性をバネにして頑張ってきた日本人も今では「自己責任」という言葉で上から容赦なく切り捨てられる時代になっているのです。