以前通りを歩いていたら、体を半分踏みつけられて、のた打ち回っているミミズを発見しました。ミミズにも「苦しみ」というものがあります。ゾウリムシにだって、のた打ち回っている様に見えないだけで、苦しみがあるのかもしれません。
もし下等動物や虫がよく出来たロボットだとしたら、回復不能で深刻な機能不全に陥りながら、無駄に体を激しく動かしているのは意味のないことです。これらの生き物も、人間とはレベルは違いますが、苦しみを感じる意識があり、それを生かしている魂があるようです。もし人間の魂が不滅で輪廻するものだと仮定すると、自分の来世がミミズになって、のた打ち回って苦しむ事だってあるかもしれません。
下等生物でもむやみに殺したり苦しめることは、やはり良くないのだろうと思うのと同時に、次の事柄に思いを巡らせました。人間に見えないほどボケてしまった認知症の人や、堕胎される胎児は、犬や牛などの動物的自我しかもたいない生命と比べて、命の尊さに高低はあるか?という問題です。
トルストイは「人生論」の中で、動物的自我だけではなく、理性的自我を具えているのが人間であり、それが人間の尊さであると述べていました。またカントは「実践理性批判」で、普遍的に立法するのが人間性の証と述べています。つまり自分で何か戒律を作り、自分でそれに従う事ができるのが人間だと語っています。
じゃあ、ボケ老人や、胎児はどうなるのでしょう。理性的自我があるように見えないじゃないか、という訳です。これについては創世記の一節を思い出しました。「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り("make mankind in our image, in our likeness")」というものです。それゆえ、他の人間がこれを損壊することは許されない、認知症の人間をぞんざいに扱ったり、堕胎をすることは神への不敬に当たるのです。ミミズには気の毒ですが、人と他の生命体との違いはここに存在するような気がするのです。