kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

日本はアフリカの最貧国のようになる

ブラッド・ダイヤモンド」という映画があります。アフリカのシエラレオネ共和国でダイヤモンド資源を巡って起きた内戦をテーマにしたものです。子供達は満足な教育も受けられず、それどころか少年達も自動小銃を持って殺戮を繰り広げます。

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日本は貧困化の一途を辿っています。人口も減っていますが、為政者にとっては国民からチューチュー利益を吸い上げる仕組みが、これから先も欲しいところです。

 

日本は既に内需が期待できず、下請け、末端労働者の質の低下や減少のため、技術力を生かしたモノづくりと輸出も期待できません。もちろん日本には輸出するような資源もありません。

 

ひとつの案として、日本を世界のプルトニウム製造、核燃料再処理工場にするというのがあります。原発インフラを利用して各国からの仕事を請け負うのです。さらに世界中で発生した核のゴミの廃棄施設を作りその管理を行うのもよいでしょう。

 

この先、地方自治や地方警察は崩壊していきますので、原発周辺には民間軍事会社から雇った傭兵を配置し、施設を守ることが必要です。また人々を徴用し、銃で脅しながら原発作業に駆り立てることもしなければなりません。

 

地方の治安は相当悪くなりますが、単純労働に従事する人間はいくら死んでも代わりがいますし、またカネ目当てで世界中から傭兵も集まってきますから、原発運用に困ることはありません。時々は土人(日本人)が面白半分に銃で撃たれたりしてしまうかもしれまんせが、日本人は駐留軍の下で人権侵害には寛容ですから大丈夫でしょう。

 

東京は選民が住む、一種の要塞都市になります。約4万人の「兵隊」から成る警視庁と朝霞や習志野自衛隊が守りますが、万が一、反政府軍に襲われるようなことがあっても、要人はヘリや飛行機、空母でいつでも脱出が可能です。富裕層や二流の役人もカネやコネ次第では助かるでしょう。

 

地方の物流はとまり、食糧は不足し、生活必需品にも事欠く毎日です。主な仕事は原発作業員か軍人、傭兵、警備員しかありません。安穏としている老人はすぐに死んでしまうでしょう。シエラレオネ共和国は世界でもっとも平均寿命が短い国ですが、そのうち日本もその座を巡って競うことになるかもしれません。人道支援を求めるユニセフの広告にも惨めな日本の子供が載る日が来るかもしれませんね(笑)。

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70億の人間の意識も、ひとつの意識が見ている夢に過ぎない、という考え方で世界を見る

地球上で次々と新しい生命が生まれては、はかなく消えていくという事が繰り返されています。この命の軽さ、無駄とも言える命の払い出しには何か理由があるのでしょうか。人間の命には何らかの価値があると信じる人ならば一度は考える問題です。

 

ひとつの考え方ですが、無数の生命、魂、意識があるように見えても、実際にはひとつの意識が見ている夢のようなものに過ぎないのかもしれません。例えば、漫画家や小説家は物語を創作するにあたって様々な登場人物を作り上げます。Aというキャラクターに没頭したかと思えば、次にBというキャラクターに移っていきます。時に書き手は、まるで登場人物が勝手に生きて動いているように感じることがあります。この場合、書き手は常に自分が書き手であり、創作世界の作り手、いわば神であることを意識していますが、こういった作り手としての意識が無い場合も考えることができます。

 

天文学者であるフレッド・ホイルが書いたSF小説に「10月1日では遅すぎる」というものがあります。ここで意識と時間について、ひとつの見方が披露されています。Aという人物のファイル、Bという人物のファイルが予め用意されていて、意識というのはそれぞれのファイルにスポットライトが当たったときに自覚されるものでしかないというのです。

A、B、C・・・、A、B、C・・・とマルチタスクにおけるタイムスライスのように次々と意識が切り替わっていき、A、B、Cそれぞれは、割り当てられている間、自分の意識がずっと継続しており独立しているものだという確固たる自信を持っていますが、それはひとつの意識(CPU)が見ている幻想に過ぎないのです。

 

またAという人物において、若年期のある頃、壮年期のある頃、老年期のある頃、そしてさらに平行したまた別の世界、といったファイルが用意されていますが、必ずしもそれらのファイルを順に見ているわけでもないのです。まったくランダムに、老年期を過ごしたかと思えば、次は若年期の世界を見ているのかもしれないのです。あるいは、老年期だけ数万回も繰り返し見ているかもしれません。それでも当人はそのたびごとに、その世界において新鮮な経験をしているのです。

ここでは過去から未来に一方向に流れる時間というもの自体が否定されています。処理が割り当てられている瞬間、そのファイルの世界においては過去があり、未来の展望があり、時間が一方向に進んでいるようにしか見えないのですが、それは予めそこに書かれていた物語にしか過ぎないのです。意識の範囲は、常にそのファイル内に限られているからです。

 

時に死の局面のファイルを開いてしまうかもしれませんが、次にはまた壮年期のファイルを開いて、人生を楽しんでいるかもしれません。つまり、世界がこういった仕組みであるならば、死さえも重要な問題ではなくなってしまいます。このシステムでは世界を見守る統括者、絶対的存在というものがありません。

 

もしかすると遠い昔に、上位の生命体が生きるのに飽いて、様々な夢を永遠に見続けていたいと考え、このシステムを作り上げたあと長い眠りについたのかもしれません。それであれば、この世界が滅茶苦茶で何でもありなのも、まったく救いがないというのも、有り得ることです。

確かに夢というのは、目的があり、筋が通って、一方向に進んでいるよりは、混乱し滅茶苦茶であったほうが面白いものですから(笑)。

集団で意味のない避難訓練をする日本人の愚かさ

日本人は意味の無い避難訓練や防災訓練が大好きです。日本の避難訓練というのは、まったく現実的ではなく、どこか儀式めいた、軍隊的な雰囲気があるのが特徴です。

 

日本のどこに居ても必ず遭遇する、あのサイレン音とナレーションを聞くたびにゲンナリする人も居るのではないでしょうか。あるいは何も考えたことのない人の方が多いのかもしれません。

 

統一と自己犠牲が必要な所では、日常生活が宗教化、軍事化されると述べたのは、エリック・ホッファーですが、日本の避難訓練というのは、自己を無にして共同体の統一性を確認するための儀式的行為であり、同時にそれを成員に叩き込むための軍事教練と言えるかもしれません。ですから実際に、訓練が効果的であるかどうか、現実に即しているかなどは省みられることはないのです。

 

上の指示があるまで、何があろうとじっとして動かない、指示があって初めて、強度の不足した無意味なヘルメットを皆で被り、調和を乱さず集団で規律正しくゆっくりと行動する、そして広場に並ばされ、儀式めいたスピーチで終了する、といった具合です。奴隷達が上の意向をくみ取って、真面目にこのような馬鹿げた行為を成し遂げる姿には驚嘆するものがあります。さすがカミカゼ・アタックやバンザイ・アタックを行った国民です。

 

避難訓練と言っても、何の事はない、これは何ひとつ自分では考えるな、黙って上のいう事をきけ、という訓練なのです。さらに上の連中も自分で決断できない愚か者なので、いざ災害に遭遇した際には悲劇的な結果になります。3.11の時は、津波が迫っているなか、子供達は学校の広場に長い間立たせられた後、波に飲み込まれて死んでしまったのです。

 

そんな教訓を人々は深く考えることもなく、今日も日本の至る所で、サイレンが鳴り響く中、頭を抱えてうずくまる訓練が繰り返されているのです。何も文句を言わない、何も考えない、ただ毎日を言われるがままに生きていく、そんな奴隷であることに安心しきった彼らの末路は悲惨なものになるでしょう。

奴隷に対する麻酔剤として作用する、ゆるキャラたち

日本には幼稚な「ゆるキャラ」や、「カワイイ」キャラクターが満ち溢れています。熱心なアニメヲタクはそれほど多くはないものの、巷で見かけるマスコットや、「魔法少女~」(笑)などは割と多くの人々に受け入れられているように思います。

 

日本人がユーモラスで明るい国民だから、こういったものが蔓延しているのではありません。これらは、日本人が幼稚なものを好むことに加え、こういったマスコットが、深刻なこと、真面目なことを包み隠す役割を担っていることから来ます。

 

日本人は子供によくウソをつきます。ルーズ・ベネディクトも指摘していますが、昔、日本では親が子供を甘やかす一方で、言うことを聞かないと「おまえはウチの子ではありません」と脅す習慣がありました。子供を感情的に翻弄して支配下に置くのです。

 

また日本人は、表面的に相手を傷つけないという理由の為に平気でウソをつきます。日本人はウソをつき、ウソをつかれることに子供のころから慣らされています。奴隷達は普通の感覚ではとても暮らしていけないようなディストピアに暮らしているからこそ、自分にも周りにもウソをつき続けなければいけないのです。

 

それゆえ、心地よい世界であるかのような幻想を子供に与える馬鹿げたストーリーや想像上のキャラクターを彼らは歓迎します。現実を誤魔化してくれるような幼稚なたわごとを自ら信用しょうとします。大人向けにTVでは御用学者や、医者、弁護士、大学生、政治家がたわいもないバラエティ番組に出演し、噛んで含めるような司会の解説とともに「日本は素晴らしい国である、権威ある私たちを信用するように」というメッセージを送っています。

 

こうして真面目に取り組まなければいけない事柄や、厳しい現実が「ゆるキャラ」や幼稚な寸劇で誤魔化され緩和されます。それは強制されているというより、奴隷たちが自ら求めていることでもあるのです。

物理的強制力が最終的に人を支配する

2018年に全米で公開される「サムソン」という映画があります。サムソンは、旧約聖書に書かれている神に選ばれた存在で、その怪力をもって数千人の敵を打ち殺し、死ぬ際にも大勢の敵を道連れにした古代イスラエルの英雄です。

 

宗教というのは暴力と深く結びついています。キリスト教がこれだけ全世界に広まったのも、武力による裏付けがあったからです。剣を使う者は剣によって滅びてしまう可能性はありますが、敵が丸腰であればこちらが勝利します。人は暴力の前にひれ伏すか、その力を失います。言葉と剣の両方があって人は言う事を聞くのです。

 

ただし信仰や狂信的な信念に基づいた暴力は苛烈を極めます。大抵の人は個人的に暴力を振るうことには躊躇するものです。しかし信仰や信念があれば、冷静に際限なく武力を用いて、罪の意識にさいなまれることもないのです。

 

「この世」では愛も必要ですが、武力も時に応じて必要なのです。光や善、愛が良いものであると言うのは簡単ですが、人間はそれだけでは生きていけません。現実的に多くの人は善と悪の間で中庸を探っていくしかないのです。どこかの国に核ミサイルを打ち込んで良いと言っているのではありません。理想と現実の狭間でちょうど良い位置を選択するバランス感覚が必要なのです。

 

日本でもこれから綺麗事では済まされない過酷な世界がやって来るかもしれません。投資家、ジム・ロジャーズはインタビューで、日本は人口減少と巨額の債務を抱えており、自分が10歳の日本人だったら自動小銃を手に入れ国を去るだろうと述べています("Japan has staggering debt. They have a declining population and debt that’s going through the roof. If I were a 10-year-old Japanese, I’d get myself an AK-47, and I’d leave.”)。

 

一投資家の意見で、インパクトを狙った言葉であることを差し引いても、あながち的外れなことを言っているとも思えません。日本はこのまま経済的、政治的混乱を経て治安悪化への道をたどり、子供達が自分の知恵と力で生き抜かなければならない世界が到来するのかもしれません。

www.youtube.com2018年公開映画「サムソン」予告編

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Jim Rogers: Governments Hate Cash, Seek to Control People With Cryptocurrencies

https://www.newsmax.com/Finance/StreetTalk/jim-rogers-governments-cash-cryptocurrencies/2017/11/10/id/825355/

(2017年12月14日)