kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

仲間1人のために99人を犠牲にする日本人

99人の利益の為に1人を犠牲にしてよいか? 小説やドラマでよく扱われるジレンマです。ところが日本人は仲間1人の為に、残りの99人を犠牲にするのです。

そこには何のためらいも躊躇もありません。日本人にとってはジレンマでもなんでもないのです。驚きです。モラルもなければ論理もありません。滅茶苦茶です。

自分が所属するムラ社会のため、役所のため、会社のため、OBのため、先輩、先生のため、自分の所属する集団や仲間の利益を最大にできるのならば、その他の多くの人々の不幸などお構いなしなのです。

だから、警察の体面を保つために冤罪が量産されたり、検察に起訴されると99%が有罪になったり、原発を守るために大勢の人間が死んだり、少数の者の為に大勢の国民が貧困にあえいだりと、異様な事態がこの国ではまかり通っているわけです。

仲間内の空気を読むことはできても、大局を考えることができない人たち。

よしんば本人に悪意が無いとしても、結果として大勢の同胞がムシケラのように扱われ死んでいく、それが日本という国なのです。

同胞をムシケラ扱いする日本人

普通の日本人であれば、できれば白人にかしずいたり、支配されたくは無いものです。白人にとって異教徒や、有色人種はムシケラでしかありません。

では同じ日本人の支配下にあれば幸せかというと、そうとは言えないのです。支配層の日本人は支配下の日本人をムシケラとしか見ていないからです。さらに同じような地位にある白人と比べて、彼らは、はるかに無能で残虐です。

普通の国では上にいくほど優秀な人間が現れるが、日本では逆に、上に行けば行くほど無能な人間が現れるという話があります。

また日本人の残虐性については、戦時中の捕虜の扱いや、現地人に対する非道な行為などで今でも根に持たれており、たびたび映画化もされています。これらは決して悪意のあるプロパガンダとは言えません。数が多かった、少なかったというのが争点ではありません(笑) そういった行為は確かに存在していました。

また下っ端の日本兵に対しても酷い扱いがあったのですが、メディアが取り上げないので話が大きくならないだけです。原爆や空襲で酷い目にあったという戦争被害者体験はよく取り上げられますが、加害者側の話も含めて、これでは公平とは言えないでしょう。

しかし必死にグローバリズムに対応してきたつもりの日本人も、そろそろ終わりでしょうか。上から下まで日本人は家畜人ヤプーとしての生き方しか残されていないのかもしれません(笑)

輸出を主体とした大企業の凋落が始まる

日本の貧民どもを搾取したうえで見殺しにする一方で、大企業は国内の金持ちや外需に活路を見出して、悠々自適なはずだったのですが、ここに来て計算が狂ってきました。

最大の市場である米国を失ってはかなり苦しいでしょう。また日本企業は世界中でカモにされています。自分では新しいものを思いつくことができないので、手っ取り早くM&Aの真似事をしていますが、スカを掴まされてばかりです。

現代は巨大なプロジェクトを素早く立ち上げ、複雑なシステムをうまくまとめあげる手腕が必要とされます。リーダーには明確なビジョンが求められます。どれも日本人には苦手なものばかりです。

バリューチェーン戦略の物まねは出来ても、独自の新しいシステムと言えるようなものを日本人は作れません。自動車製造も巨大なシステム作りです。電気自動車が主流になるにつれて、新規参入が容易になった一方で、クルマ作りはIT、通信、IoT、AI、仮想技術などをまとめあげる複雑なシステムと化しています。

日本人は現場任せで創造的な頭が足りないので、こういう事は苦手なのです。クルマ作りでもスティーブ・ジョブズのような人材が必要なのです。到底日本人には無理な話です。M&Aの真似事でケガをするか、指導権を白人に奪われて、名ばかりの日本企業となっていくことでしょう。日本にできるのはジャポニズム的な懐古品作りだけになります。

どうやら日本人総貧乏化が始まったようです。残された道は白人にひたすら媚びへつらう事だけです。

ギターにみる不完全な平均律の響き

音楽というのはキーが同じであるならば、純正律の方が美しい響きを得られます。しかしあらゆるキーに即座に対応する為、また曲中での転調が不自然にならない為に現代は平均律が基本となっています。ピアノやギターは特別の理由が無い限り平均律で調律することが前提となっている楽器です。

 

しかしギターの平均律では、どうしても音の濁りを感じる場合があります。ポピュラーな楽曲でこの例を挙げてみます。

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これはチューリップの「サボテンの花」という曲ですが、冒頭のギターの部分がちょっと調子外れに聴こえます。この曲のキーはト長調なのですが、イントロはドミソの和音(長三和音)とドファラの和音(下属和音)の繰り返しになっています。ギターの場合、ト長調でドミソが合うように調律すると、ドファラの音が濁ってきます。ラの音が高すぎてしまうのです。これがちょっと不自然な響きに感じる理由です。ギターは普通に調律するとこうなります。開放弦を使ったこの音形では、この矛盾は解決できず、ドファラで合うように調律すると今度はドミソの和音のソの音が低くなってしまいます。

 

同じ弦楽器でもヴァイオリンは音程を自由に変えられますが、フレットを打たれているギターはそうはいきません。単音ならば微妙に音程をずらすことも可能ですが和音を弾く場合は無理です。

 

ト長調で、ドミソとドファラの和音が交互に出るというのはフォークギターでは割と多いパターンです。サイモン&ガーファンクルの曲でもよく出てきます。次の曲は初期の「kathy's song」(キャシーの歌)という作品ですが、こちらは反対にドファラの和音が良く調和する様に調律されています。冒頭の0:05から始まる部分です。この調律のおかげで、1:00から始まる同じ音形の和音(Dsus4)も美しく響いています。

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濁りのある和音があってもアコースティックギターのように共鳴する箱があると、美しい響きは耳やマイクに伝わるまでに増幅され、それほど不快感はありません。これはピアノも同じです。

 

難しいのはエレキギターです。音の濁りがそのまま残ってしまいます。さらにドライブさせたりして歪ませると、不快なうねりが強調されて聴こえてしまうのです。ソリッドなエレキギターの場合、パワーコードと呼ばれる5度との組み合わせだけの和音を使ったりして、出来るだけ少ない音を重ねて和音を作るのは、直感的にそれを感じているからです。

 

逆にこの不協和な響きもあえて使いこなしていったのがジミ・ヘンドリックスです。「ジミヘンコード」のような不安定な和音を使ったり、複音でのチョーキング、アーミングを使って生じるうねりを強調しているケースを彼の曲の中の随所で聴くことができます。

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N響の演奏にみる日本人の協調性と暴走

N響がピアニスト、マルタ・アルゲリッチと競演したビデオがあります。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番なのですが、ピアノとオーケストラがずれまくって、まったく音楽の体を成していません。まずは、ぴったりと合っている模範例としてユジャ・ワンアバド指揮するルツェルン祝祭管弦楽団と競演したものを聴いてみてください。1:40から2:40ぐらいまででいいです。

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次にマルタ・アルゲリッチNHK交響楽団です。こちらは、0:40から1:40まででOKです。

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いやはや酷い演奏です。テンポが速くてピアニストが遅れているのではありません。NHK交響楽団はピアノを全く聴いておらず、合わせようとする気がないのです。指揮者はシャルル・デュトワですが、彼の指揮にも従っていません。

0:40から見ると、明らかに指揮棒よりもオーケストラが先走りをしています。逆にアルゲリッチがオケに合わせてくれています。かと思えば1:30のファゴットが大写しになる部分からはオケがいきなり遅くなっており、ピアノとまったくずれてしまっています。

N響は遅くあるべき所が速く、速くあるべき所が遅かったりしています。彼らは誰の指示にも従わず、ピアノに合わせる気もなく、ただただ機械的に演奏しているだけなのです。第一楽章が終わった時点(9:00)で、アルゲリッチが指揮者に対して首を横に振って、手を横に広げて不満をアピールしています。

N響の言い分としては、リハーサル通りに弾かなかったアルゲリッチが悪いということでしょう。つまり自分の仲間内ではぴったり合わせるが、指揮者とピアニストは自分たちに合わせろと、こう言っているわけです。

普通の人間は、こんな聴くに堪えない音を出すのに耐え切れず何とかしようと思いそうなものですが、仲間内の音は聞こえても、ピアノの音や指揮者は頭から消え去ってしまったかのようで、その無神経ぶりはあっぱれと言う他はありません。

日本人は協調性は高いのですが、それはあくまで仲間内のものでしかありません。仲間を重視するあまり、「音楽を聴かせる」という本来の目的など、どうでも良くなってしまうのです。そして日本人が集団でおかしな方向に走り出しても誰もそれを止めることはできないのです。