kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

良い人が助かる訳ではない、サタンではなくイエスの側に付いている、その違いでしかない

多くの日本人が誤解している所があります。それは「悪いことをしていなければ、仮に死後の世界や来世があったとしても、悪いようにはならないだろう、神は善なのだから」と思っている点です。

善人が報われ、悪人が罰せられる、そうであればどんなに良いことでしょうか。この世は不条理であっても、本当の神が支配する世界ではそうあればと思います。しかしこの考えには次のような問題があります。

(1)何が良くて悪いことなのか人間には分からない

(2)サタンは当初、悪い御使いとは見なされて無かった

(3)天界の争いは善悪の戦いではなく、イエス対サタンの戦い(と捉える方がよい)

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエスの話があります。これは良い事を沢山した人が救われるのではなく、またお金がある人は必ず持ち物を売り払って施しをせよと言っているのでもないように思えます。つまりイエスの言葉に従うか否かという事が大切だというのを示しているように思われます。

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。(マルコ10:17-26)


逆に良いことをした事の無い重犯罪人や人殺しであってもイエスに従えば救われるわけです。

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:39-43)

「俺はそこまでして救われたいと思わない」という人もいるでしょう。しかし地獄というのはつらい所です。イエスに従わない、イコール、サタンの側に付くという事になります。そしてサタン側に付いた御使いや人間は地獄で永遠に生きることになります。不滅の肉体を与えられながらウジに食われ灼熱の炎に焼かれる苦痛と孤独が永遠に続くのです。意識を失ったり死ぬことは許されません。地獄に行きたくない、それだけでもイエスに付き従う十分な理由ではないでしょうか。

もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。(マルコ9:47-48)