kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

キリスト教徒は自殺できるのか

キリスト教徒は自殺できないとされています。旧約聖書に書かれている「汝、殺す無かれ」は自殺も含むと考えるのが一般的です。

また聖書に書かれている自殺の例もあまり良いものはありません。ダビデの命を狙っていたイスラエルのサウル王は戦場で追い詰められて自ら死を選びました。イスカリオテのユダはイエスを裏切った後、自殺しました。

ただしひとつだけ自ら死を選んでいい場合があります。

だれかがその友人たちのために自分の命を捨てること,これより大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)

ハリウッド映画でも戦友を守るために、自ら敵の投げた手りゅう弾の上に身を投げるとか、敵に対してスーサイド・アタックを実行するという場面がよく出てきます。これは愛に基づいた自己犠牲であり、彼らにとってキリストの精神に反するものではないのです。ただしこれを異教徒がやったら、ただのテロリストでしかありません。

日本においては、福島に赴いて「死んで応援」というのも良いかもしれませんね(笑)

遠藤周作の「沈黙」のジレンマにクリスチャンはどう対応すべきか

遠藤周作の「沈黙」という小説に、クリスチャンが直面するジレンマが描かれています。島原の乱後の江戸時代に日本を訪れたポルトガル人宣教師が、「お前が棄教するまで、他の棄教を約束したクリスチャン達の拷問を続ける」と日本の役人に脅されるのです。そして小説において、この宣教師は棄教することを遂に決意してしまいます。

さてクリスチャンはこういった場面でどういう対応をすべきなのでしょうか。答えは見殺しです。例え親兄弟や、恋人、妻、子供がどんなに残虐な拷問にあっていたとしても自分の信仰を捨てるべきではないのです。

この物理世界における人生というのはせいぜい100年程度の、束の間のものに過ぎません。それに対して信仰を捨てた結果受ける地獄の苦しみは永遠です。どうすべきか答えは明らかです。拷問にあっている他の人々が地獄の苦しみを免れるかどうかは、その本人自身の選択の問題でしかありません。

所詮、この世で親兄弟、妻や子供の関係にあったとしても、魂のレベルから言えば、ただの他人です。あるいは綺麗に言えば人間は等しくみな兄弟、姉妹であると言う事もできます。

だからこそ、この見殺しという行為に抵抗を感じる人は次のジレンマを考えてみると良いでしょう。もし拷問を受けている人が、自分がまったく知らない強盗殺人犯だったとしたら、この場合、あなたはどうしますか? 仲間や親兄弟だったら助けるけれども、赤の他人の犯罪者なら見殺しにしますか?

それこそ矛盾というものです! 人は皆等しく兄弟姉妹なのです。しかもどういう事情があったのかも知らずに他人を裁いてはいけないのです。「沈黙」という小説はいかにも日本人らしい偽善的な結末です。見かけの優しさなどどうでも良いのです。本当に大切なのはイエスを選ぶかどうかということです。

しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。(マタイ10:33)

わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。(マタイ10:37)

なぜ祈りは聞かれないのか

神を信じようとする際、最初に躓くのが、これかもしれません。なぜ祈りは聞かれないのか。

それは、イエスが磔になって現在に至るまで死んだ状態、無意識の状態であるからと考えられます。黙示録には「わたしは、すぐに来る」と書かれており、また磔になった際、イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とも言いました。しかしイエスが死んで2千年が経ちましたが、世の中は悪くなる一方です。そしてイエスが居なければ、我々は神と通信することができないのです。

では祈りは無駄なのでしょうか。そうではありません。それは自分の立場を鮮明にする意味があります。イエスの立場をとるのか、あるいはルシファーの側につくのかという選択です。その立場表明の記録となります。

また祈ることによってこの世を支配している神々が、その願いを叶えてくれるかもしれません。イエスの語った不義なる裁判官の例えのようにです。ルシファーといえども、神の是認を受けたうえで、この世を支配しているのです。

それではこの世の神々に直接祈ったらいいのではないかと言う人がいるかもしれません。そうしている人は大勢います。しかしそんな事をしたらサタンの側につくことになってしまいます。ここは重要です。

ルシファーというのは、言ってみれば意地悪な直属上司です。VPN回線があるわけではないので(笑)、祈りをすればその内容はルシファーにつつぬけです。上司を飛び越えて訴える訳ですから覚悟が必要です。祈りの内容は工夫することが必要です。しかし日依ってはいけません。ここが難しいところなのです。

彼はまた,いつも祈っていなければならず,あきらめてはならないことを,彼らにたとえで話して言った,「ある町に,を恐れず,人をも敬わない一人の裁判官がいた。その町には一人のやもめがおり,何度も彼のもとに来ては,『わたしを訴える者からわたしを弁護してください!』と言っていた。彼は,しばらくの間はそうしようとはしなかったが,後になって自分に言った,『わたしはを恐れず,人をも敬わないが,それでもこのやもめがわたしを煩わすので,彼女を弁護してやろう。そうしないと,彼女は絶え間なくやって来て,わたしを疲れ果てさせるだろう』」。(ルカ18:1-5)

新しい天と地の変わり様に戸惑う人々

イエスが言う「この世の終わり」において、この物理世界は一瞬で新しくされます。しかしクリスチャンでさえも、その新しい天と地(Sky and Earth)の変わり様に驚く人々がいるかもしれません。いくつか思いつくものを挙げてみます。

(1)男女の性別はなくなる。当然、性行為というものはない。家族や、子供、親といった区別も存在しなくなる

(2)人種の差はなくなり、人間はそのあるべき形に戻る。それは今とは相当違ったものと思われる(例えば宇宙人グレイのような姿)

(3)山や広大な海は無くなり平坦な土地が続く。四季の変化もなくなる。太陽が直接照りつけることはなく、青い空や雲はなくなり、雨が降ることもない

(4)広大な宇宙や星々は消え去る。地球こそが人間が住むべき唯一の場所である

(5)おそらく地球の外側ではなく、地球内部の空洞に住むことになる。地球内部に光体が存在し、それが太陽の代わりとなる

(6)エントロピー増大の法則はなくなる。物質の自然崩壊や老化は無くなる。暖かいものは暖かいまま、冷たいものは冷たいままである

(7)電気や火を用いることはなくなる。肉を食べることはもはやない。火を使った料理を作ることもない

(8)学問における真理の追及や、大事業など、人が過度の問題解決や仕事に追われることは、もはやない

(9)人間が自分の無意識や欲望の矛盾に振り回されたり、悩まされることはもはやない。ハトのように単純で純真になり、悪を思いつくこともできなくなる

(10)人間が科学技術や真理を追求したり、それを利用したりすることはない。そのような欲求も能力もなくなる。

(11)温暖な気候が永遠に続き、人は裸で、好きな時に木の実を食べ、好きなことをする。ハトのように気ままな生活をおくることになる。

(12)人間や他の生命体の内部構造はずっと単純でシンプルなものになる。人間は棍棒一本で簡単に破壊されるような存在ではなくなる

(13)遺伝子レベルでの人々の個性はなくなり、人々は基本的に同じ顔、同じ姿になる。人間同士の差別や誤解はなくなる

(14)動植物を含めて死はなくなる。排泄もなくなる。汚らしい腐敗もない。昆虫やバクテリアも存在しなくなる

(15)多すぎる動植物は大幅にその種類を制限される。生殖や成長もないので、もはや新しい形態の動植物が生まれることもない

(16)気候や自然がその姿をかってに変えていく事はない。永遠に安定して変わらない世界が続いていく

(17)進歩や向上、努力や成長、「カイゼン」といった、永遠に人に負担を強いる考えは打ち捨てられる

現在の物理世界のありように満足している人々は、不満を感じる内容かもしれません。退屈な世界だと思う人もいるかもしれません。しかしこの世にうんざりしている人は、新しい天と地を喜んで迎え入れるでしょう。

この世は真剣に生きるに値しない

カイジ」という漫画に、「この世を空想か何かのように考えて、真剣に生きようとしない人間が多い」と登場人物が語るシーンがあります。しかし真実は逆です。この世は天界(異次元)の住人から見れば、仮想世界そのものです。

なぜ行き当たりばったりで出会った男女の性行為で、簡単に一つの生命が生まれてしまうのか。なぜこう脆くも人は死んでしまうのか。もしこの世界以外に天界の住人が居るのなら、何故このようなことが許されているのか不思議です。その理由のひとつは、この世における生命が仮初めに過ぎないからです。

まるで一生懸命に生きるのが良いことであるかのような風潮がありますが、自分のレベルに応じて適当に生きるのが楽で良いのです。でないとカネや名誉、業績や、多くの友人といったポイント集めに、いつのまにか夢中になってしまいます。あるいは、良いことを沢山すれば救われるのでしょうか。しかし良いことを沢山するのにはカネが要ります。結局同じことです。

先ほどの漫画「カイジ」で、「人は死ぬ時に、この世が空想などではなく真実であることを悟って後悔する」とありますが、これまた逆です。人は死ぬ時に、この世が夢幻のようなものであったことを悟るのです。豊臣秀吉が「つゆとおち露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢」とまさに述べたようにです。