もしこの世界を作った存在が居るならば、この世に無関心であるように見えるのは不思議なことです。まず彼らはどのようにこの世界を見ているのでしょうか。
仮に彼らにも我々と同じような時間感覚があるとします。すなわち、一方向にほぼ同じようなペースで流れていく時間です。しかし作り手である彼らが我々の世界を見る場合には、当然ですが、我々と同じ時間軸に沿って見るとは限りません。
我々の時間軸に沿ってA、B、Cと3つに時間を区切った場合、彼らは現時点であるBだけでなく、任意にAを見る場合もあれば、Cを見る場合もあるでしょう。
また、我々が空間を見る際にマクロレンズや広角レンズによって、対象を拡大したり、俯瞰したりして眺められるのと同じように、作り手は悠久の流れを一気に見ることも出来るだろうし、それこそ特定個人の動きをスローモーションで何回も観察するような事もできるでしょう。
それでは彼らは観察するだけで、なぜ手を出さないのでしょうか? ひとつの可能性ですが、もし多世界解釈のようなものが真実であり、それらが同時に存在し、その選択が観察者の意思によるならば、彼らが介入する必要性は無いはずです。というのも例えばAからCという流れにおいて、b1,b2,....bn のように無数に近い経路の可能性が同時に存在し得るならば、その中から彼らが観察したい事象を任意に選択すれば良いだけだからです。我々が、Aという出発点からCという目的地まで出かける際、好きなルートを任意に選べるのと同じことです。
世界がこのようなものであるならば彼らが観察するだけで全く介入してこないように見えるのも不思議ではありません。我々が自覚している世界は彼らが観察している無数に近い可能性のひとつに過ぎないのです。