kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

将来のために知や富を蓄積できない日本人

日本人ほど視野の狭い人々はいないかもしれません。彼らは自分の事や、今現在にしか興味が無いのです。そのため長期的な視野に基づいて知や富を蓄積したり、インフラを整備するといった事が出来ないのです。そもそも彼らは、将来の担い手である子供を育て、国を繁栄させる事さえ満足に出来ません。

 

日本人は「お上」や地主、世間の目といったものを常に意識してきた人達です。子供は地主に労働力を提供する為の奴隷でしかありませんでした。経済的に困窮すればちゅうちょ無く売り飛ばしたりしたのです。工業化に伴い、農家の次男三男坊は、財閥に直接労働力を提供するようになり、敗戦後は「金の卵」と言われた労働者の集団就職により、都市近辺に労働力が移動していきました。彼らは次第に、家や世間の目を気にせず、自分の事だけを考えれば良いようになったのです。農地改革等もあり、自分達の労働を手伝わせるために子供を無闇に作る必要も無くなりました。

 

都市部への人々の移動によって、言葉に頼らずに「空気を読む」ことで成り立っていた人間関係も崩れていくことになりました。様々な場所から集まった人達は、新しい隣人とのコミュニケーションが必要となる中で、警戒心を持って最低限の接触をしながらも、大いに芝居がかった親密さを演じるような人間関係の術を身につけるようになりました。こうして今に至るような表面上は馴れ合いながらもよそよそしく、裏では悪口が飛び交うという対人関係の基本的な構造が築かれていったのです。

 

また、日本人は短期的にしかものを見れない人達でした。先人達の知恵や知識、それら全てを暗記する事に意味はなく出来る事でもありません。しかし、その中からエッセンスを見出し、主体的に自分の考えと照らし合わせながら、先人が辿った知恵の道筋を辿っていくという大切な事については、ついに興味を持ち得ませんでした。

 

日本人は流行の服を変えるかのように思想や学問、知識や技術を、身に付けては捨て去ります。若い頃は最先端の物事に興味を持ち、大いに議論もしますが、やがては凡庸な日本人へと変わってしまうのです。知恵や知識を積み上げていく事は出来ず、彼らにとって文明の継続性など思いも寄らないことなのです。

 

彼らが携わっていた素朴な農作業では、周りが動く通りに季節や行事に応じた決まりきったルーチンワークを行っていれば良かったのです。近代化以降も基本的には、トランジスタラジオを組み立てていた若い女工のように、ダイオードトランジスタが何であるかを理解することは無いままに、安い賃金で指示されたとおりミスなく速く組み立てる事だけを考える、そのような人達によって日本は支えられていたのです。大量生産の時代が終わった途端に日本が斜陽化したのは自然の成り行きでした。

  

祖先をかえりみず、さらには子孫達の事も考えられない人々、彼らには過去も未来もありません。また彼らは、他人の事を考えずに反目しあい、ただひたすら己の満足を追い求める人々でもあります。

こういった人達が現在の困窮を招いたのは当然のことだったのです。一億人を有する国家などは日本人にとって手に余るものです。戦争を起こして外国の資源を収奪してやろうとか、輸出品で世界を席巻してやろうとかいう目的を失ったいま、国全体が、ただの巨大な搾取のシステムと化しています。吸い上げた側も、利益をどう使って良いのか分かっていません。

確かに明治維新以降のシステムは、元勲たちが作った奇跡の産物だったのかもしれません。しかしこのような奇跡は再び起こるものではありません。日本人はせいぜい狭い地域共同体で、農業や家内製手工業でもやっているのが性に合っているのです。

Pat Metheny - Don't Know Why

"Don't Know Why"は、Jesse Harrisが作詞・作曲し、ノラ・ジョーンズNorah Jones)のシングルで有名になった曲です。ここではギタリストのPat Methenyバリトンギターを用いて、独特のアレンジでこの曲を演奏しています。


Pat Metheny - Don't Know Why - LIVE - Later with Jools Holland

こちらが、ノラ・ジョーンズの曲になります。


Norah Jones - Don't Know Why

日本人の男女関係

男女関係を見てみると、日本人の人間関係の問題が浮き彫りになるようなところがあります。

日本人は愛情が薄く自閉的な傾向を持っています。人と付き合いたくないのかと思えるくらいです。以前は欲望や集団の圧力によって交わっていたのが、家族を持つ必要性が薄くなった現在においては、個人で生活するという、本来の姿に戻ったとも言えそうです。

 

スパイを描いた映画「レッド・スパロー」で教官が、ハニー・トラップについて、肉体的な技術だけでなく相手の欲望を見定め、それに合った心理操作が必要だと述べる場面があります。ターゲットとなる男性の中には同性愛者や、娘の代わりに女性と食事をするだけで満足する者も居るのです。「愛される」とは、「見られ、認められ、孤独では無いと感じること」だと教官が語ります。シンプルですが分かり易く実際的な定義です。

 

日本人も人間である以上、「孤独では無い」と感じたい欲求があるはずです。しかし彼らの場合、それを満たしてくれるものは、必ずしも家族であったり、異性であったりする必要は無いのです。安定した勤め先に帰属している事が、同僚と時々酒を飲めるという居心地の良さ、毎日通って暇を潰すことの出来る場所があるという安心感につながっているのです。日本人でもパートナーや家族を大事にするという人は居るでしょうが、多くの人にとってその重要性は相対的に低いのではないでしょうか。

 

さらに日本人は「愛する」という行為も苦手です。「相手を見て、認め、安心感を与える」、こういった事が出来ない人が多いのです。

ですから日本人は、実際の人間を愛したり、眼前の人々から愛されたりするよりは、抽象的な「日本」や役所、企業、あるいは主張や意見、趣味趣向を同じくする集団に属する事で満足を得ようとするのです。

 

男女関では互いに相手の欠点ばかり見ていて、なかなか相手の良い面を認めようとしません。「生理的に好きになれない」というわけです。これでは候補と感じる理想の相手には、なかなか巡り会えないでしょう。好きになっても、相手に対して一貫した気持ちで継続的に関与し続けるという事が出来ないので、カネや魅力がなくなったら「ポイ捨て」という事にもなりかねません。また、相手の浮気は許さないが、自分は欲望のままに振舞うなど、要するに日本人は自分の事しか考えて居ないのです。

 

日本人のあらゆる人間関係と同じように、男女関係でも上下関係というのが付いて回ります。男性は女性という奴隷を求め、女性は子供という意のままになる奴隷を求めます。こういう異常な「支配ー依存」関係は、構成員が病的な性格でそれに満足している場合にだけ上手く行きます。満足して居なくても、他に居場所が無ければ我慢する他はありません。男性は勤め先に依存し、女性は家庭に依存します。

 

愛の薄い日本社会で人々は、愛の代わりを得られる帰属先、すなわち、安心できる居場所を求めて彷徨います。肉体的欲求の満足、心理的、経済的な安定を求めていますが、それら全てを家族で補う必要は無いのです。年を重ねるにつれ、収入が安定していない女性の場合、経済的な不安が大きくなり、一発逆転を狙うようになります。男性の場合は心理的な安定を求めるようになりますが、より従順な相手が理想となります。かくしてすれ違いが続きます。

 

昔の日本ならば、欲望のまま、若気の至りで結婚しても「どうにかなるだろう」という見通しがありましたが、今やそんなリスクを取る事は出来ません。将来に渡ってより経済的に安心感のある相手、より経済的に負担とならない相手を、よくよく見定めて選ばなければなりません。「可愛い、綺麗、格好いい」で早計に結婚、妊娠しては人生が詰んでしまうかもしれません。経済的な安定感が無く「可愛い、綺麗、格好いい」という水準にも達して居ないような人間は眼中にすらありません。

 

日本人がかろうじて子供を作って来れたのは、不倫や強姦に寛容な社会、社会の経済的な安定感や希望の存在、勤め先や近隣社会による結婚への圧力、男性は家庭を顧みず、女性が身を粉にして家族の為に働く事が社会常識とされてきたこと、若い女性が一人で生活するというのが考えられない社会であったことからでしょう。

日本人は「愛情」などと言う要因で結婚したり家庭を持ったりはしません。

現在の日本における未婚や小子化という問題は、もともと内在していたものが単に表面に現れて来ただけなのです。

論理や倫理を持ち得ない現代の日本語

以下はデカルトの「方法序説」からの一節です。

「私自身について言えば、一般の人々と比べてどんな点においても自分の方が完全であると考えたことは無かった。それどころか、他の一部の人達と、素早い思考や、明確で鮮明な想像力、必要な時に十分に想起できるような記憶力において同程度であればよかったと私はしばしば願いさえした。それらと並び、理性や良識に関しては これ以外に精神を完成させるのに貢献するいかなる資質も私は知らない。というのも、我々を人たらしめ獣と区別する唯一のものである限りにおいて、この点で哲学者が言う、良識の多寡は『偶有性』の中にあるだけであって同一種の個人における『形相』や性質の中にでは無いとする一般的な意見を採用したいのだが、私は理性を個々の人々の中に完全な形で見出せると信じたいのだ。」

"Pour moi, je n'ai jamais présumé que mon esprit fût en rien plus parfait que ceux du commun; même j'ai souvent souhaité d'avoir la pensée aussi prompte, ou l'imagination aussi nette et distincte, ou la mémoire aussi ample ou aussi présente, que quelques autres. Et je ne sache point de qualités que celles-ci qui servent à la perfection de l'esprit; car pour la raison, ou le sens, d'autant qu'elle est la seule chose qui nous rend hommes et nous distingue des bêtes, je veux croire qu'elle est tout entière en un chacun; et suivre en ceci l'opinion commune des philosophes, qui disent qu'il n'y a du plus et du moins qu'entre les accidents, et non point entre les formes ou natures des individus d'une même espèce." Discours de la Méthode

逐語訳でしたが、今度は正確さを犠牲にしてでも分かり易い表現を試みてみます。

「私は、自分が他の人よりも何らかの点で優れていると思った事はなく、それどころか、他の人のように、速く考えたり、はっきりと想像したり、思い出せたりしたらよかったのにと考えたものです。これらのものと同じように、理性というのは、精神を良いものとするのに大切で、私たち人間を動物と違ったものにしているこの理性は、すべての人の中に見出すことができると私は考えています。と言いますのも、理性が多いとか少ないとかいったことは、たまたま表面においてそうなっただけで、人間本来の理性は完全であるという、哲学者の意見に私も賛成するからです。」

こう書くと有り難みは少ないですが、ごく普通の事が書かれているというのが分かると思います。

 

分かり易い文章とはどういったものでしょうか? 

例えば新約聖書福音書に、今でも多くの人達を捉えるものがあるとすれば、それは弱者や罪深き人々への同情や愛情が、語られる人柄から伝わってくるだけでなく、その比喩を多用した表現、ありありと眼前にイメージできるような描写、まるで個人的に話しかけられているような話の進め方にもあるのかもしれません。

 

語りかけるように書かれ、声に出して読んだ時にリズミカルで気持ちが良く、ひとつひとつのパラグラフが適度な長さである、同じ単語の繰り返しは避け、変化があり、さらに誰でも読んで分かる表現や比喩が使われ、面白く読むこともできる、そういった文章がひとつの理想ではありますが、また、出来るだけ文章全体の長さは短くしながらも情報を詰め、曖昧な語句を避け、簡潔な文体で正確を期すという書き方もあります。いずれにしても書き手が最も伝えたいと思うレベルで、その意図が、最も伝えたい読者に伝わればいいわけです。

 

しかし現代においては、情報を口頭で伝える機会や重要性が相対的に減り、それに従い、口語体の退化、言文の乖離、ひいては言葉全体の退化が起こっています。

 

言葉の退化は論理の欠如へとつながります。

日本人は言葉を視覚的に処理していると言われますが、視覚処理は並列的に処理できる一方で、聴覚処理は時系列で入力されて来る単語や接続詞を使って自分で構造を組み立てていく必要があります。日本の教育で作文は重視されていませんが、書く場合も、込み入った思考をひとつの時系列の流れとしてつむぎだす必要があります。 日本人がもともと論理に弱いのはこういった所にも原因があるのでしょう。

論理に弱ければ、体系だった倫理感を持つ事も難しくなります。

  

日本人自身が、自分達が考えたものにあまり価値を認めず、外国からの翻訳や引用をやたらと有難がる傾向があるのは、もともと自分達に論理的で価値ある考えなど、作り上げることはできないのだと、無意識に思っているからかもしれません。 

権威の裏づけが無い限り、口達者な人が居ても、詭弁を弄し騙そうとしたり、何かを誤魔化そうとする怪しい奴と思われたりします。

言葉を軽々しく扱ったり、あるいは逆に、神棚にでも祭るように仰々しく使ってみたり、そういった言葉に対する不当な仕打ちを止めない限り、日本人が論理と倫理を身に着けることは永遠に出来ないでしょう。それを変える為には、言文一致運動以来の、根本的な国語の改革が必要なのかもしれません。