kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

輸出を主体とした大企業の凋落が始まる

日本の貧民どもを搾取したうえで見殺しにする一方で、大企業は国内の金持ちや外需に活路を見出して、悠々自適なはずだったのですが、ここに来て計算が狂ってきました。

最大の市場である米国を失ってはかなり苦しいでしょう。また日本企業は世界中でカモにされています。自分では新しいものを思いつくことができないので、手っ取り早くM&Aの真似事をしていますが、スカを掴まされてばかりです。

現代は巨大なプロジェクトを素早く立ち上げ、複雑なシステムをうまくまとめあげる手腕が必要とされます。リーダーには明確なビジョンが求められます。どれも日本人には苦手なものばかりです。

バリューチェーン戦略の物まねは出来ても、独自の新しいシステムと言えるようなものを日本人は作れません。自動車製造も巨大なシステム作りです。電気自動車が主流になるにつれて、新規参入が容易になった一方で、クルマ作りはIT、通信、IoT、AI、仮想技術などをまとめあげる複雑なシステムと化しています。

日本人は現場任せで創造的な頭が足りないので、こういう事は苦手なのです。クルマ作りでもスティーブ・ジョブズのような人材が必要なのです。到底日本人には無理な話です。M&Aの真似事でケガをするか、指導権を白人に奪われて、名ばかりの日本企業となっていくことでしょう。日本にできるのはジャポニズム的な懐古品作りだけになります。

どうやら日本人総貧乏化が始まったようです。残された道は白人にひたすら媚びへつらう事だけです。

ギターにみる不完全な平均律の響き

音楽というのはキーが同じであるならば、純正律の方が美しい響きを得られます。しかしあらゆるキーに即座に対応する為、また曲中での転調が不自然にならない為に現代は平均律が基本となっています。ピアノやギターは特別の理由が無い限り平均律で調律することが前提となっている楽器です。

 

しかしギターの平均律では、どうしても音の濁りを感じる場合があります。ポピュラーな楽曲でこの例を挙げてみます。

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これはチューリップの「サボテンの花」という曲ですが、冒頭のギターの部分がちょっと調子外れに聴こえます。この曲のキーはト長調なのですが、イントロはドミソの和音(長三和音)とドファラの和音(下属和音)の繰り返しになっています。ギターの場合、ト長調でドミソが合うように調律すると、ドファラの音が濁ってきます。ラの音が高すぎてしまうのです。これがちょっと不自然な響きに感じる理由です。ギターは普通に調律するとこうなります。開放弦を使ったこの音形では、この矛盾は解決できず、ドファラで合うように調律すると今度はドミソの和音のソの音が低くなってしまいます。

 

同じ弦楽器でもヴァイオリンは音程を自由に変えられますが、フレットを打たれているギターはそうはいきません。単音ならば微妙に音程をずらすことも可能ですが和音を弾く場合は無理です。

 

ト長調で、ドミソとドファラの和音が交互に出るというのはフォークギターでは割と多いパターンです。サイモン&ガーファンクルの曲でもよく出てきます。次の曲は初期の「kathy's song」(キャシーの歌)という作品ですが、こちらは反対にドファラの和音が良く調和する様に調律されています。冒頭の0:05から始まる部分です。この調律のおかげで、1:00から始まる同じ音形の和音(Dsus4)も美しく響いています。

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濁りのある和音があってもアコースティックギターのように共鳴する箱があると、美しい響きは耳やマイクに伝わるまでに増幅され、それほど不快感はありません。これはピアノも同じです。

 

難しいのはエレキギターです。音の濁りがそのまま残ってしまいます。さらにドライブさせたりして歪ませると、不快なうねりが強調されて聴こえてしまうのです。ソリッドなエレキギターの場合、パワーコードと呼ばれる5度との組み合わせだけの和音を使ったりして、出来るだけ少ない音を重ねて和音を作るのは、直感的にそれを感じているからです。

 

逆にこの不協和な響きもあえて使いこなしていったのがジミ・ヘンドリックスです。「ジミヘンコード」のような不安定な和音を使ったり、複音でのチョーキング、アーミングを使って生じるうねりを強調しているケースを彼の曲の中の随所で聴くことができます。

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N響の演奏にみる日本人の協調性と暴走

N響がピアニスト、マルタ・アルゲリッチと競演したビデオがあります。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番なのですが、ピアノとオーケストラがずれまくって、まったく音楽の体を成していません。まずは、ぴったりと合っている模範例としてユジャ・ワンアバド指揮するルツェルン祝祭管弦楽団と競演したものを聴いてみてください。1:40から2:40ぐらいまででいいです。

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次にマルタ・アルゲリッチNHK交響楽団です。こちらは、0:40から1:40まででOKです。

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いやはや酷い演奏です。テンポが速くてピアニストが遅れているのではありません。NHK交響楽団はピアノを全く聴いておらず、合わせようとする気がないのです。指揮者はシャルル・デュトワですが、彼の指揮にも従っていません。

0:40から見ると、明らかに指揮棒よりもオーケストラが先走りをしています。逆にアルゲリッチがオケに合わせてくれています。かと思えば1:30のファゴットが大写しになる部分からはオケがいきなり遅くなっており、ピアノとまったくずれてしまっています。

N響は遅くあるべき所が速く、速くあるべき所が遅かったりしています。彼らは誰の指示にも従わず、ピアノに合わせる気もなく、ただただ機械的に演奏しているだけなのです。第一楽章が終わった時点(9:00)で、アルゲリッチが指揮者に対して首を横に振って、手を横に広げて不満をアピールしています。

N響の言い分としては、リハーサル通りに弾かなかったアルゲリッチが悪いということでしょう。つまり自分の仲間内ではぴったり合わせるが、指揮者とピアニストは自分たちに合わせろと、こう言っているわけです。

普通の人間は、こんな聴くに堪えない音を出すのに耐え切れず何とかしようと思いそうなものですが、仲間内の音は聞こえても、ピアノの音や指揮者は頭から消え去ってしまったかのようで、その無神経ぶりはあっぱれと言う他はありません。

日本人は協調性は高いのですが、それはあくまで仲間内のものでしかありません。仲間を重視するあまり、「音楽を聴かせる」という本来の目的など、どうでも良くなってしまうのです。そして日本人が集団でおかしな方向に走り出しても誰もそれを止めることはできないのです。

世の中は正義と秩序が支配する世界へと向かっている

大きな戦争が起こるとか、寒冷期が来るとか、大地震がもうすぐ起こるとか、「終わり来る来る詐欺」がかまびすしいですが、そのような破局的な世界の終りは来ないと思われます。映画「マッドマックス2」や「北斗の拳」のような荒廃した自由な世界というのは、実は無意識的に人々が憧れを持っているものですが、それとは正反対の世界がやってきます。

それは「正義と秩序」が支配する厳しい世界です。北朝鮮や、国際的に悪名名高き、日本の中世司法、息苦しい日本のイジメ社会をを思い浮かべると分かりやすいかもしれません。じわりじわりと真綿で首を絞めつけるように人々を苦しめ、自ら死を選ぶようにする、あるいは、罪を犯すように仕向けるのです。

過ぎた正義が奨励され、人々は互いに監視し合い、密告が奨励されます。警察やお上は常に立派な人々であると洗脳されます。人工知能は公正で完璧な支配機構を実現します。そして人々は、厳しい秩序に従って毎日規則正しく生活するようになります。そのような社会に合わない不適合者は、病人として隔離され薬漬けにされるか犯罪者と認定されます。

分かりますでしょうか? 世界が日本のようになるのです。北朝鮮や中国、ソビエトが一種の実験場であったように、日本も未来を先取りする実験場だったのです。

人々を教育や洗脳によってどこまで従順にできるか、大災害や失業、貧困に対してどこまで国民は耐性を持つのか、どの程度の社会的ストレスによって人は自殺するか、人口削減に対して大人しく従うか、いざ戦争が起こった場合に喜び勇んで戦場に行く優秀な兵士となるか、毒だらけの食品や、放射能汚染された食材によって人々はどう変わるか、デマ情報によって政府は国民を思い通りに動かせるか、国は借金だらけで年金制度は破綻寸前というウソで国民から金を巻き上げられるか、円高で日本企業が繁栄するからという理由で物価を高く吊り上げられるか。

そしてこのような事が降りかかっても人々はあいかわらず、政府や役人、警察、司法、医者や金持ちを崇め続けるのか、全てが目的をもって行われ、ビッグデータが収集され事細かく分析されているのです。

日本人の特性は、新世代の統治者にとって理想的なものです。確かにある意味、日本は理想の国です(笑) しかし世界の人々が日本人的なものになればいいのであって、オリジナルの日本人が必要なわけではありません。それは誤解なきように(笑)

やがて地方において深刻な飢餓が始まる

現在、急速な人口減少が続いている日本の各地方ですが、まだ呑気に人集めを試みている地方自治体もあるようです。しかしやがてそんな事を言ってられなくなります。

自治体の財政破綻、インフラの崩壊や、スーパー、コンビニの廃店などにより、日用品の購入がままならなくなります。そして最後は食糧でさえ、手に入らなくなるのです。宅配便だってもはや来てくれません。

ジジイになってクルマの運転が出来ない、まともなクルマを購入する事が出来ない、ガソリン代も払えない、電車もバスもタクシーも無いとなったらアウトです。例え交通手段があったとしても遠距離まで日用品や食糧を買いに行くのでは、コストがかかってしょうがありません。

宅配業者への無茶苦茶な過重労働で成り立っている、現在のネット通販システムは、一部の地域を除いてやがて破綻します。そのうちドローンによって天から運ばれる日用品や食糧を皆で奪い合うようになります。

田圃や畑や漁港があっても、収穫された農産物や魚貝類は都会の恵まれた人々が食べるものです。地方の貧乏人が口にできるようなものでは無くなるのです。つまり地方における生鮮食糧の価格が上がるという逆転現象が起こるのです。

これから地方に住むことを検討している場合には、まったくの自給自足が可能である人以外は考え直したほうが良いかもしれません。