kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

福島避難民に対するイジメにみる日本人の心理

福島からの避難民に対するイジメが話題になりました。その内訳は、賠償金に関するもの、避難者であることを理由としたもの、放射能を理由としたものの大きく3つに分けられるそうです。

 

これらのイジメをしている人たちは、特に底意地の悪い人ではなく、こういった行為は、ごく一般的な日本人の心の表れです。

 

以前の記事、「日本人の精神構造からみた社会階層」にも書きましたが、災害や犯罪の被害者は、日本では「不可触民」にあたります。名誉を失い、ケガレを負ったものたちです。要するに、子供の言葉で分かりやすく言うと、「みっともない」、「ばっちい」ということなのです。

 

震災から6年もたつのに、未だに惨めな避難生活を続けていて、さらには賠償金までふんだくっていると、苛めている人たちは感じているのです。さらには放射能で実際に穢れDNAも傷ついているから、汚らしい、お近づきになりたくないというわけです。

 

日本にいる限り、この不名誉は死ぬまで続き、決して払拭することはできません。苛められるのは未だ良いほうで、最終的には無視され、まるで存在しないかのように扱われてしまうのです。

幼児期からの正しい兵士・奴隷養成教育

優れた兵士、奴隷国民を作るために幼児から施すべき教育について考えてみます。

 

以前の「優れた兵士を作る秘訣は馬鹿となるように教育すること」の記事でも書きましたが、自ら進んで犠牲になるような兵士や、奴隷国民を作るためには次のことを叩き込む必要があります。

 

1.自分の命には(国や会社と比べて)価値がないこと

2.規則正しく生きること

3.自分で考えずに即座に命令に従うこと

4.強い仲間意識、他者承認欲求をもつこと

 

(1)帰属する国が、正しい人々によって運営されている義の国であり、身を粉にして世の為、人の為、社会の為に尽くすべきであることを学ばせます。国の為に自らの命を捨てた偉人を知らしめ、時に虐待的な躾けを行うことによって、自分の命にはそれらと比べたら価値が無いのだということを叩き込みます。

 

(2)ルールに従わなかったら厳罰を与えるのがコツです。ルールは理不尽であればあるほど有効です。こうして上からの命令は絶対であること、背いたら苦しい思いをすることを学び、ルールや秩序を無条件に守る模範的な兵士、奴隷が出来上がるのです。

 

(3)常に忙しくさせて、活動に最大限の注力をさせることが有効です。さまざまな大量のカリキュラムに、体育活動、部活動、課外授業、習い事をさせて、「自分の時間」を奪う事が大切です。教育は丸暗記や模写、楽譜通りの演奏など、考えるのではなく、与えられた課題をその通りにこなすようなものが妥当です。成績の悪い者や、活発でない者は厳しく罰することによって、忠実な兵士となります。

 

(4)日本では特に、幼児期からの親のスキンシップが有効です。ベビーカーを用いるのはあまり好ましくないのです。スキンシップが不足すると、集団になじまず、他者承認欲求があまり強くない人間が育ってしまいます。ある程度の年齢に育ってからは運命共同体的なグループ生活で、仲間意識を育て、仲間に対して恥ずべき行いをすべきでは無いこと、仲間の為には自分を犠牲にすること等を学ばせていきます。

 

こういったことを幼児期から躾けることによって、優秀な兵士や奴隷が育っていき、国や組織の為に積極的に命も捨てるようになるのです。

 

 

トヨタを含めた日本自動車メーカーの没落

今は日本最大のメーカーであるトヨタですが、今後もそうあり続けられるかは、はなはだ疑問です。クルマを巡る情勢は激しく変動しています。トヨタは言うまでもなく北米市場に大きく依存しています。このマーケットを失ったら終わりです。

 

高級志向のレクサスブランドもアメリカと日本以外では成功しているとは言えない状況です。

 

アメリカは先進国でありながら輸送インフラが意図的に遅らせられてきた国です。他に移動手段がないから仕方なくクルマを利用しているという人が多いのです。そういう人たちにとってクルマはステータスでもファッションでも資産でも何でもなく、丈夫でメンテナンスが最小限で済む酷使可能な実用車であれば良いのです。

 

そういった階層に好まれているのがトヨタなのです。この先、アメリカで何らかの輸送手段の変革があった場合、今までの大衆車はまったく売れなくなる可能性があります。それは電気自動車かもしれないし、真空チューブ列車であるかもしれないし、あるいはまったく新しいタイプのコミューターであるかもしれません。

 

またクルマの電気自動車化、IT化、自動運転化に伴い、今までのエンジニアリングとは全く異なる技術力と統合力が必要になってきました。煩雑な許認可に縛られている日本は出遅れています。いくら海外で試験を行ったところで、日本で実地試験ができなければどうしようもありません。

 

少数の富裕層にはしばらくクラシックな高級ガソリン車が売れ続けていくでしょう。しかし、トヨタ、レクサスはこの層ではまったく成功しているとは言えません。動力性能が中途半端、デザイン、プレミアム感もいまいちではしょうがありません。富裕層には、単に高品質なだけでは売れません。

 

この先の大衆向けコミューターの大変革に乗り遅れたら、日本の自動車メーカーは総崩れになります。

芸術で創造性などは育まれない

今話題の幼稚園のサイトを見ると、絵画制作や音楽演奏によって創造性を育むとのことです。

 

絵画や音楽を作ることが芸術的行為であり、創造的なことであると誤解している人が大勢います。しかしそれは違います。一般的なサラリーマンが創造的でないのと同じように、「芸術家」のほとんども創造的ではありません。

 

彼らのほとんどはコピーや猿まねに過ぎません。そもそも芸術という分野は、値段を決める「キュレーター」と資産を芸術品に変える必要がある富裕層が、「芸術家」の値段を決めているだけのことです。独創的であるかどうか、真に価値があるかどうかなんて、どうでも良いのです。

 

しかし「芸術家」は少なくとも何かを生み出しているではないか、と言う人がいるかもしれません。しかし何かを生み出しているのは芸術家だけでなく、サラリーマンや専業主婦だってそうです。

 

ポップカルチャーでのスターも広告代理店や業界の巧みな誘導でヒット作が生まれているのであって、自然発生的にヒット作が生まれているわけではありません。業界にはヒット作を作り続け大衆から金を巻き上げるスーパースターが常に必要なのです。

 

ということで、幼稚園児が絵画や音楽演奏に一生懸命になったからといって、創造的になるわけではありません。絶対的な基準がないから、幼稚園児の描いた落書きが「芸術だ」と言われて展示され、それを観た馬鹿な人たちが「ああ、そうか」と感心するだけのことです。

 

確かにある種の楽器は、幼児期からの教育が効果的ですが、巧みな演奏家が必ずしも芸術を理解しているとは限りません。

 

芸術、情操を謳う教育機関の本当の目的は、体育や習い事などで常に忙しくさせることによって、自分で考えずに命令に素直に従う人間を作ることなのです。

 

昔の創造性溢れる偉人達が、幼児期からスパルタ教育を受けていたかというと、そんな事はありません。むしろ落ちこぼれの方が多いのです。昔も今も創造性のある人はごく少数者です。それは教育によって生み出されるものではありません。もし「創造性を育む」などと謳っている教育機関があったとしたら、それは疑ってかかったほうがよいでしょう。

優れた兵士を作る秘訣は、馬鹿となるように教育すること

映画「フルメタルジャケット」では、過酷な海兵隊の新兵教育を垣間見ることができます。鬼軍曹が新兵に対して、「自分たちは価値がないこと」、「規則正しく生きること」、「自分で考えずに即座に命令に従うこと」等を徹底的に叩き込んでいきます。こうして士官や軍曹の命令に忠実なロボット兵士ができあがるのです。

 

兵士(ソルジャー)を馬鹿となるように教育する、実はその例を、いにしえの薩摩の郷中教育(ごじゅうきょういく)に見ることができます。

 

生麦事件に端を発する薩英戦争後、英国と薩摩は急速に距離を縮め、薩摩は明治維新へと突き進んでいきます。イギリス人の通訳アーネスト・サトウは薩摩について、「優れた人々で将来この国において指導的立場を担うであろう」というような意味のことを日記に書き記しています。

 

またある英国の外交官は、郷中教育について、「兵士に対しては常に『ぼっけもん』(馬鹿者)であることを要求する。こうして命令一下、死ぬことも厭わない兵士が出来上がる。しかしこのような教育を、あえて拒否し続ける者に対しては一転、将来指導的立場を担うものとしてまったく別の教育がなされる。」というような意味のことを書き残しています。我々が伝え聞いている郷中教育の内容や、「ぼっけもん」の意味合いとは若干違いますが、彼らが薩摩の軍隊教育をどう受け取ったかというのが分かります。

 

薩摩の郷中教育の一部は、日本の新兵作りや、国民教育へと受け継がれていきました。郷中教育はもともと的確な瞬時の判断力を重視するものでしたが、国民のほとんどは兵隊や奴隷でよいので、「ぼっけもん」作りが重視されたのです。

 

そして太平洋戦争で、日本兵の自爆攻撃やバンザイ突撃、中々降伏しないしぶとさを目の当たりにした米軍は、その秘密を探り、新兵教育にそのエッセンスを取り入れていったと思われます。