遠藤周作の「沈黙」という小説に、クリスチャンが直面するジレンマが描かれています。島原の乱後の江戸時代に日本を訪れたポルトガル人宣教師が、「お前が棄教するまで、他の棄教を約束したクリスチャン達の拷問を続ける」と日本の役人に脅されるのです。そして小説において、この宣教師は棄教することを遂に決意してしまいます。
さてクリスチャンはこういった場面でどういう対応をすべきなのでしょうか。答えは見殺しです。例え親兄弟や、恋人、妻、子供がどんなに残虐な拷問にあっていたとしても自分の信仰を捨てるべきではないのです。
この物理世界における人生というのはせいぜい100年程度の、束の間のものに過ぎません。それに対して信仰を捨てた結果受ける地獄の苦しみは永遠です。どうすべきか答えは明らかです。拷問にあっている他の人々が地獄の苦しみを免れるかどうかは、その本人自身の選択の問題でしかありません。
所詮、この世で親兄弟、妻や子供の関係にあったとしても、魂のレベルから言えば、ただの他人です。あるいは綺麗に言えば人間は等しくみな兄弟、姉妹であると言う事もできます。
だからこそ、この見殺しという行為に抵抗を感じる人は次のジレンマを考えてみると良いでしょう。もし拷問を受けている人が、自分がまったく知らない強盗殺人犯だったとしたら、この場合、あなたはどうしますか? 仲間や親兄弟だったら助けるけれども、赤の他人の犯罪者なら見殺しにしますか?
それこそ矛盾というものです! 人は皆等しく兄弟姉妹なのです。しかもどういう事情があったのかも知らずに他人を裁いてはいけないのです。「沈黙」という小説はいかにも日本人らしい偽善的な結末です。見かけの優しさなどどうでも良いのです。本当に大切なのはイエスを選ぶかどうかということです。
しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。(マタイ10:33)
わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。(マタイ10:37)