kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

文明退化へと向かう日本

日本は文明退化への道をひた走っています。文明を発展させていく民族。ただ維持していくだけの民族。そうしたこともできずに衰退させていく民族。同時代の民族ではあっても、それぞれ異なります。これらの違いはどこから来るのでしょうか。

 

国を発展させる方法を経済の面だけから探ろうとすると、本質を見誤ります。「これからの資本主義をどうするか」といった問いの立て方をすると、もはや経済から離れた発想ができなくなるのです。

アダム・スミスが1755年に述べたように、国が繁栄するためには、平和、司法の公正さ、軽い税金という条件が必要です。しかるに今の日本は、パンデミックが起こり人心が荒廃しています。不穏な事件も起こっています。人々は重税と物価高にあえいでいます。司法は機能しておらず、政治における不正がまかり通っています。

これらを無視して対策をうっても無駄です。マズローを持ち出すまでもなく、人間は自身の安全が保証されなければ、それ以上のことはしないものです。彼らの住んでいる家を見てください。「夏は暑くて眠れない。冬は寒くて眠れない」とでも言うべき、豚小屋に住んでいます。

 

大きな視点でみると、現代文明はいまだかってない長期の繁栄を人間にもたらしています。この繁栄は、次のものがベースとなって生まれています。個人の人権や財産が保護される仕組みがあること。資本市場が機能していること。科学的で合理主義的な考えが人々の間に根付いていること。迅速で効率的な運輸・通信のインフラが整備されていること。この4つです。

これらがあるために、人々は安心して経済活動にいそしむことができるのです。人々の間に合理主義的な考えがあるため、因習に囚われずに、より良い世界を築くための斬新的進歩も可能となるのです。

 

ところが現在は、皆が等しく抱いていた科学への信仰が失われつつある時代でもあります。科学があまりにも普通の人達とはかけ離れた存在になってしまったのも一つの要因です。科学が怪しい魔術のように思われていた時代がありました。今はそれと似ています。科学だけではありません。社会や市場、政治を動かすシステムも複雑です。一歩先を読むのさえ難しい社会なのです。

 

その代わりにネット上では陰謀論が溢れ、人々は安易に飛びつきます。複雑なシステムを単純明快に説明してくれるように見えるからです。誰かのせいにすれば、それ以上考える必要もありません。フィルターバブルによって、ますますその信念は強固なものになっていきます。一般人がオカルトにはまってしまうのも無理はありません。

 

人間の思考力は昔も今もそれほど変わっていません。今の人間の方が優れているわけでは全くありません。その代わりに考えるための材料は豊富です。それを効率よく身につけることで、優れた結果を生み出せるのです。

先人の学問の成果を身につけるにあたっては、体系的に物事を理解する必要があります。知識はすぐに陳腐化してしまいます。それよりも考え方が大切です。それによって新しいものを生み出せるのです。現状のシステムにおける足りない所や、変えたほうがいい部分に気づくこともできます。

文明というものは、人間がより良い生活を築くために絶えず改善を繰り返していくシステムや人々によって支えられているのです。

 

人間はラクをしようとする生き物です。ラクをするのにも2つの方法があります。1つは上で述べたようにシステムを改善する方法です。もう1つは、ただ怠けるだけというものです。

困ったことに日本人は後者なのです。自分からは物事を改善していくことができません。言われた通りに手足を動かすだけです。「カイゼン」と上から言われて、ようやく改善の真似ができる程度なのです。

また、日本人の場合、表面上は働いているように見せかけますが、実は何もしていないという事がよくあります。社会が衰退していくのも当たり前です。

 

システムを改善し続けていく事ができる優れた人たちには、どういった特徴があるのでしょうか。「もっと良い未来を築けるはずだ」という信念。将来に対する明確なヴィジョン。そして同胞への愛です。これが優れた変革者、指導者の条件です。

愛が欠けていると、無慈悲な独裁者になってしまいます。愛があってもヴィジョンが欠けていれば、現状維持が精一杯です。信念が欠けていれば、そもそも行動を起こせません。

これが為政者のみならず、各界の指導者、そして庶民に至るまで共有されていることによって、文明は継続的に発展していくことができます。

 

ただ単に出来上がったシステムを利用して怠けるようになってしまう人間が多くなると、社会の衰退が始まります。どんな貧しい国でも、支配者層だけは豊かな暮らしをしています。それをよしとしてしまうと、そこから抜け出すことができなくなってしまいます。もはや正当な方法では、国の仕組みをただすことができない状態となるのです。

 

日本の特徴として、伝統的に、庶民にたかる寄生虫が多いことが挙げられます。内戦が終わり江戸時代となっても、多くの武士が存在し続けました。登城し役人の真似事をしていましたが、暇を持て余していました。彼らは何も生み出さずに百姓のコメにたかって暮らしていたのです。まさに穀潰しです。日本人には自浄能力がないため、こういった連中を定期的に一掃する仕組みが必要なのです。

人々がまともな付加価値を生み出せず、為政者の不正が看過され、増税を繰り返してるような国に未来はありません。

 

日本人は激しい劣等感と傲慢なほどの自尊心の間で、常に揺れ動いている人達です。いつも表面だけを取りつくろうのに一生懸命で、本質を見ようとしません。薄情で、困っている人に手を差し伸べようとしません。

こういった性向と、生来の頭の弱さとがあいまって、日本の文明が瓦解しかかっているのです。

 

「豊かさ」の誕生(上) 成長と発展の文明史 「豊かさ」の誕生 成長と発展の文明史 (日本経済新聞出版)

「豊かさ」の誕生(下) 成長と発展の文明史 「豊かさ」の誕生 成長と発展の文明史 (日本経済新聞出版)

新しい資本主義実現本部/新しい資本主義実現会議|内閣官房ホームページ

老人支配国家 日本の危機 (文春新書)

完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの

人口で語る世界史

陽だまりの樹 1

天国と地獄

人間にとって時間とは何か

人間にとって時間とは、どういう意味を持つものでしょうか。我々は時間というものを漠然とは感じています。絶対的なものではないにしても、相対的な時間はあるだろうと思っています。ところが実のところ、時間軸そのものがあるのかどうかさえ不確かなのです。

 

時間をどんどん細かく分けていくと、そこではもはや因果律が存在しません。素粒子や光子が次の時間において何処に移動するのかは、確率的にしか分からないのです。

Aという位置にあって、かくかくしかじかの状態にあったから、次はBという位置に移るだろうとは言えないのです。これらの空間を形作っている「量子」は、瞬間的に移動します。この量子の動くタイミングそのものが、時間の最小単位といえます。

 

そもそも時計で測れる時間でさえ、絶対的なものではありません。より地球の中心に近い平地では、山岳地帯と比べてゆっくりと時間が過ぎます。飛行機で移動している人にとっては、地上でじっとしている人と比べて、時間もゆっくりとなります。質量やエネルギーによって時間は影響を受けるのです。

「現在」というのも人によってズレがあります。Aさんの目に写ったBさんの動く姿は、少し前の過去の映像に過ぎません。話をしても、耳に届いた声は少し過去のものです。

時間軸は伸び縮みするだけでなく、現在さえも、人によってズレがあり、共有されてはいないのです。各人それぞれが自分の時間軸と現在を生きているに過ぎません。

 

なぜ、時間という、ひとつの方向へ矢のように進むものがあるように見えるのでしょうか。それはこの世界が、熱いものから冷めた状態へ、秩序だったものから乱雑なものへと進む物理法則に支配されているからです。エントロピー増大の法則と呼ばれているものです。

 

ボールを転がすとやがて止まります。運動エネルギーが、摩擦による熱エネルギーに変わったからです。その熱は周囲の冷めた空気へと移動します。

薪を燃やすと、最後にススだけが残ります。薪という秩序だった存在が崩壊して、熱となったからです。

 

普通の人は、ボールがリビングに転がっているのを見たら、誰かがボールを投げたのだろうと推測します。ススを見つけたら、何かが燃えたのだろうと考えます。その逆はありません。ボールがひとりでに動いたり、ススから薪が現れることは無いのです。

 

人間は経験したものをパターン化して整理し、因果律を頼りにして未来を予測する生き物です。そのように進化してきました。物理法則が支配する世界では、その方が生き延びやすかったからです。

人も瞬間に生きる存在です。しかし記憶があります。そしてそれを基にして未来を想像できます。こうして人間の中に過去から未来という、漠然とした「時間」という概念が生まれたのです。

 

なぜ時間が存在するように見えるのか。それは、たまたまこの世界に、秩序だった状態から乱雑な状態へ、熱い状態から冷めた状態へ変わるという法則があったからに過ぎません。そして人間は複雑な脳を持つように進化したために、この法則を頼りに時間を考察するようになったのです。

 

モノは刻々と姿を変えていきます。時間軸に沿って、モノが配置されているのではありません。変幻流転する「出来事」の連続を、時間として認識しているだけなのです。

 

時間芸術として音楽があります。音楽そのものはどこかに存在しているわけではありません、過去の音の連なりに、まさに現在、自分が聴いている音を組み込んで、音楽を認識しているのです。次はこうなるだろうと無意識のうちに期待し、その通りになると安心したり、あるいは意外に感じたりして楽しんでいるのです。

自我にしても、時間を抜きにしては考えられません。今まで自分はこうして来たという記憶があり、未来はこうしようという計画があります。過去と未来があるからこそ、いま何かを感じて考える自分があります。

 

量子レベルでは、過去も現在も未来もありません。量子は確率的に場所を移動するだけです。けれどもマクロな視点で見ると、エントロピー増大の法則があり、過去の「出来事」の痕跡が残るのです。薪を燃やした後のススのようにです。人間は、それを利用するように進化してきたのです。

 

目の前に貴金属があったとしても、それは確固たる存在ではありません。量子は常に場所を移動しています。現れては消えます。ミクロな視点では霞のような存在です。人間の視点からすれば、姿を変えない確かな存在に見えるだけです。

やがてこの宇宙が冷え切って、秩序だったものが全て消えれば、人間そのものも存在できなくなります。とはいえそれは遠い未来のことです。

 

もしかすると、この宇宙とは別に、エントロピーが別の方向に向かうような物理法則が支配している世界があるのかもしれません。全体としては帳尻が合います。もっとも我々からは観察ができませんが。

 

時間や存在があやふやなものだからといって、人間の存在や生き方が無意味になるわけではありません。

音楽を聴いても、その実体がどこかにある訳ではありません。正義や公正、理想の世界を思い浮かべても、それがどこかに存在するわけではありません。そうであっても、心の中にそれを思い浮かべることが出来るという事が、人間の素晴らしさに他ならないのです。

 

モノやカネ、時間があってもそれだけでは何の価値もありません。人としてどう生きるかが大切なのです。何を行ったかという「出来事」が大事なのです。「あの人はいっぱい資産を持っている」「暇な時間をたくさん持っている」と言って、人は他人を称賛するのではありません。

理想を実現するために行動した者だけが、人々の記憶に残るのです。そのために死ぬことになったとしてもです。誰かの役に立ち、思い出される価値がある人間になること、それこそが理想ではないでしょうか。

 

ある人の髪の毛が白いとか、顔にしわが寄っているからといって、その人が長く生きてきたと認める理由にはならない。その人は、長く生きていたのではない。たんに長く存在していただけなのだ。

セネカ『人生の短さについて』

不死への鍵は、憶えておくに値する人生を生きることである。

ブルース・リー

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時間は存在しない

ワイルド・スピード/スーパーコンボ (字幕版)

人生の短さについて 他2篇 (光文社古典新訳文庫)

世界は「関係」でできている: 美しくも過激な量子論

「縮み志向の日本人」

日本人は他人に対して容易に心を開きません。それどころか、他人が余計な行動をしないかを監視しています。互いに牽制しあっているのです。人間同士の関係は薄くなり、経済活動も縮小していきます。

 

社会や経済は、人々がコミュニケーションすることによって発展していきます。コミュニケーションが滞った社会は滅びます。

コミュニケーションとは人と人との間で発生する交換です。それには次のものがあります。言葉を交わすこと。モノやカネを交換すること。婚姻という親族の交換。この3つです。

人から何かをして貰ったら、お返しをしたくなるのが人間です。他人に与えるのを嫌がる。貧乏人に施しをするのを嫌がる。福祉などとんでもない。そう考えていたら、その社会は終わりです。

 

今の日本を見ると、他人との交わりを出来るだけ断って、消費も控えているように見えます。結婚する人も減っています。これだけを見ると、日本は滅びゆく社会ということになります。

 

日本はもともと、よそ者との接触を避ける社会です。人々は、「ムラ」や小さなコミュニティ内だけを見ています。会話の内容が分からないないように、仲間内だけで通じる隠語や略語を使い、「ソト」の人間を排斥します。

 

明治政府は廃藩置県を実施し、天皇を頂点とするシステムを整備しました。それにより、人々を強制的にひとつの目標へと集結させることができたのです。それを実現する為に標準語も作られました。身分制度も表面上は廃止されました。政府主導によってインフラが整備され、さまざまな工場も作られていきました。徴兵制度や、工場の仕事を求める人々によって交流が増えていったのです。

日本人は強制されないと、バラバラとなり、内へと向かう傾向を持っています。日本人は、個人主義と呼ばれる欧米人より、他人を「信頼」していないことがわかっています。いわば、日本人は自分のことしか考えない身勝手な「個人主義」なのです。

 

人々の自然な交流が無い代わりに、庶民からカネを強制的にむしり取るシステムが出来上がっています。上の者が富を得る一方で、国民は最低の生活を強いられるのです。人間をダシにして上の人間がうまい汁を吸う。それが日本というシステムです。

 

日本人は、匿名掲示板やSNSを通じて、お互いを攻撃しあっています。退職金は確定拠出年金となりました。公的年金も貰えるかどうか分かりません。賃金は増えないどころか、減っています。物価は上がっていきます。それに加えて重税です。

彼らには未来がありません。消費を減らしカネを溜めなければなりません。気が狂って投機に手を出します。寄生するパートナーも居ません。充分な教育費を用意できなければ、子供は不良債権となります。

子供に面倒を見てもらおうという甘い見込みは成り立たなくなりました。福祉もあてになりません。多くの人々は孤独のうちに亡くなり、腐ってドロドロになった状態で発見されるのです。

 

富は無から生まれるのではありません。人の心にある希望から生まれるのです。賃金を得るために、労働者は身を粉にして働きます。提供した労働力から賃金を引いたものが、経営者の富となります。企業が作った製品は、労働者が買うことによって経済が回っていきます。一方的な搾取だけでは経済が収縮してしまいます。

 

ところが日本では、経営者も役人もその意識に欠けています。彼らはムラ社会の構成員のように行動しています。「日本人なんか使い潰せばいいじゃん」「連中からむしり取ったカネで俺たち楽しもうぜ」「自分たちが死んだ後のことなんてどうでもいいや」と考えているのです。

実際に彼らは外国のために動いているのですから、もはや日本人と呼ぶことさえ躊躇(ためら)われます。日本というのは、彼らにとって「狩り場」に過ぎないのです。

 

しかも彼らは、庶民に負けず劣らず無能です。プロフェッショナルではなく、アマチュアです。彼ら自身が「素人」と自称しているのだから間違いありません。失敗の責任を負うつもりはありません。それなのに何故、上に君臨しているのでしょうか。要するに彼らは「自分たちは特権階級だから、搾取する権利がある」と言っているのです。

 

彼らの当事者意識の無さには呆れます。まるで他人事です。もっとも、同じ部署に数年しか居ないのですから責任感が希薄になって当たり前です。無難に過ごせば定年まで勤められ、退職金も満額もらうことができます。こんな人達に日本の根幹を握られているのです。

 

日本人の敵は日本人なのです。いや「日本人と自称している連中」と言うべきでしょう。

日本全体がカルト集団に他ならず、しかもカネを外国に貢(みつ)いでいたというのが明らかになりました。我々は食物連鎖の最底辺にいるのです。貧しさはやがて国全体に広がっていきます。けれども上の連中は「いざとなれば外国に高跳びすればいい」と考えています。こんな人々を「日本人」と呼ぶことはできません。

 

この流れを転換させることは出来るでしょうか。方法はあります。まずは「日本人と称しながら実はそうではない者たち」を、政治の舞台から追い出す必要があります。公○がそのリストを持っています。そして人々の心に、未来についての明るい希望を吹き込まなければなりません。プロパガンダ、洗脳によってではありません。事実によってです。具体的には政策です。そして教育です。ここにカネをかけねばなりません。

 

本文の冒頭で、コミュニケーションについて書きました。その中でも言葉が大事です。日本語を整備し、まともなコミュニケーションができる場を提供するのです。これも教育によってなされなければなりません。

 

これを実行するには、最低でも30年後の未来を見据えられる人材が必要です。しかも「畜群」に左右されない信念を持つ人です。果たして、今の日本にそういった人がいるのでしょうか? 

構造人類学

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

「縮み」志向の日本人 (講談社文庫)

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

生の始まりと終わりについて

国の統治に携わる者はどう生きていくべきでしょうか。それは庶民のものとは異なるものであるはずです。生き方が違うのであれば、その終わり方も異なります。

 

「良い死に方を知らないものは、悪い生き方をするだろう」とセネカは書きました。何をするにあたっても、最後を見据えておくべきです。期日や「あるべき姿」といった目的をイメージしているからこそ、それに向かって効率的な仕事ができるのです。

統治に関わる者も同じです。常に自分の引き際を考えているべきです。小さな会社において創業者が会長職にしがみついたとしても、その影響範囲はたかが知れています。しかし政治に携わる老人が、その地位にしがみつけば、その弊害は国全体に及びます。

 

スティービー・ワンダーの「Isn't  She Lovely」という曲があります。初めて自分の娘が産まれた時の感動を歌ったものです。

歌詞のなかに、「生と愛は同じもの」という部分があります。人間は勝手に生えてくるものではありません。人の営みによって産まれてきます。愛によって生命が誕生することもあれば、憎しみによって生命が消えることもあります。

ちょっとした切っ掛けによって生を授かったのに過ぎないのならば、それを奪われることも覚悟しなければなりません。

人が消え去ったとしても、そこから新しいものが生まれることもあります。本人にとっては災いですが、世界にとっては朗報となり得る場合もあるのです。

 

全ての人間がゴミのように扱われ消えてしまうことは防がなければなりません。しかし上に立つ者であれば、地位を失う可能性を常に意識するべきなのです。「良い悪い」ではなく、世の中がそういうものだからです。生々流転(しょうじょうるてん)がなければ社会が停滞してしまいます。

 

人間の命は等価ではありません。赤ん坊の可能性は未知数であり無限大です。しかし年をとって、恵まれた環境で力を振るう立場にありながら、社会に仇なす行為を続ける者があれば、社会的に淘汰されなければいけません。「良い実」を結ばない者は、申し開きができません。斬り倒される他はないのです。

 

歴史を振り返ると、独裁者がいなくなることによって、どれほどの人達が救われて来たことしょうか。利害を共にして来た者は悲しむでしょう。けれども、その悲しみは一時的なものです。その一方で、大衆の喜びは持続的なものです。

 

為政者を人間として捉えるのは間違いです。彼はシステムを動かすマシンに過ぎないからです。ほとんどの人にとって「あの人が人間的にどういう存在だったか」という話はどうでも良いことです。システムを動かす重要な歯車の調子が悪くなったら、交換するしかありません。これが「無私」ということです。

後世になってから正しいとされた人とて、同じことです。一種の贖(あがな)いです。自分を身代わりとして捧げることによって、人々を救ったという訳です。

語り継がれる数々の英雄的な逸話は、後世の人が付け加えた飾りに過ぎません。

 

善悪どちらの存在であったにせよ、彼らは、単なる私人ではないのです。普通の人間とは全く違う、別のルールが適応されるべきなのです。悪口を言われない権利、批判されない権利など、噴飯ものです。彼らは、傷つきやすい乙女なのでしょうか。

統治に関わるものは、何よりも無私が求められます。経済に関わる人々や庶民が従うべき、自由主義的なルールとは全く異なります。

 

慌てふためいて醜態をさらすのは恥ずかしいことです。自分だけは例外だと思うのは、自惚(うぬぼ)れです。地位が高くなればなるほど、人間は機械に過ぎなくなるのです。自分を犠牲にして、システムのために奉仕する存在です。そう思わなければ、やっていけない仕事です。

それなりの地位にありながら、商人のようにカネをもらい、なおかつ、庶民のように自堕落な生き方を楽しもうとは、まったくもって虫のいい話しではありませんか。

 

人が存在しているのは、まったくの偶然に過ぎません。できる事も限られます。それを意識すれば、人間はもう少し謙虚になれるはずです。

 

すべての時間を自分のためだけに使う人、毎日を人生最後のように生きる人は、明日を待ち望むことも、明日を恐れることもない。

絶大な幸せは、それがどんなものであれ、不安に満ちている。また、運というものは、たとえ幸運であっても、信頼がおけない。

 

あなたは、理髪店で何時間もすごす伊達男たちを、閑暇な人と呼ぶだろう。髪の乱れを直してもらったり、薄くなった髪を、あちこちから前のほうに寄せ集めたりしている。理髪師が少しでも不注意なことをしようものなら、彼らはどれほど怒ることだろう。こんな連中の中に、自分の髪が乱れないことよりも、自分の国が乱れないことが大事と考える人がいるだろうか。

セネカ『人生の短さについて』

(ロンドンのハイド・パークで行われたスティービー・ワンダーのコンサートです)

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Isn't She Lovely

市場の倫理 統治の倫理 (ちくま学芸文庫)

人生の短さについて 他2篇 (光文社古典新訳文庫)

日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点 (集英社インターナショナル)

他人を信用しないのに簡単に騙されてしまう日本人

日本人は人を信用しません。その一方で詐欺に遭いやすいのも日本人です。権威だけを見て人を判断するからです。彼らの視野は極めて狭く、想像力が限られています。

 

日本人は「信頼」がない代わりに、規則やルールで全てをがんじがらめにしてしまいます。規則の上に規則を積み重ねています。規則は複雑で互いに矛盾しています。それをカバーするために、さらなる例外ルールを付け加えていくのです。

ルールが作られることによって、日本人は「安心」します。官公庁や大企業のような大きな組織になるほど、規則は徹底しています。構成員は何も考えなくても済むようになります。決められたルールに従ってさえいれば、失敗をすることもなく、カネも貰えます。老後も安泰です。

けれども、彼らは思考停止に陥っています。想定外の出来事が起こると、どう対処して良いかが分かりません。そんな場合でも、周りを見渡し、他の人と同じ行動をとろうとするのです。

 

しかしもし、周りに人が居なくて、自分一人で判断しなければならなくなったとしたら、どうなるでしょうか。目の前に、魅力的な詐欺師がいるとします。言葉使いは滑らかで、口当たりの良いことを言います。真理を述べているようにも思えます。彼らは二人組でやってくる場合もあります。こうなると日本人は弱いのです。簡単に騙されてしまいます。

 

普段、日本人は「他人は信用できない」と思っています。ところが思いもかけず、個人的な親しみを示されたり、優しくされると騙されるのです。いつも表面しか見ていないからです。日本人は集団では頑固で強情ですが、各個撃破に弱い人達なのです。

 

どんな職場でも、腰の低い人がいます。言葉使いも丁寧で、気が利き、いつも他人の事を先回りして考えているように見えます。何かあると直ぐに「すみません」と先に謝ります。ところが胸襟を開かせてみると、途端に他人の悪口ばかり言うようになります。これが日本人の正体です。

印象が良過ぎる日本人は信用できません。それでは、はっきりとモノを言うような人間の方が信用できるのでしょうか。必ずしもそうではありません。

ではどこで見分けたら良いのでしょうか。邪悪な人間は、必ずスケープゴートを用意します。例えば、外国人やマイノリティーといったものです。そういった人を攻撃します。人々が無意識のうちに自分たちとは違うと考えているものです。そういった属性に当てはまれば、弱者であっても情け容赦なく叩きます。

宗教団体が「我々の仲間になれば救われる」「そうでない奴は誰であろうと滅ぼされる」と勧誘するような場合も同じです。

 

彼らは集団を強くするためには方法を選びません。寄付をつのり、その裏で権力者や強者にすり寄ります。清貧を強いる一方で、幹部は豪勢な暮らしをしています。利益を得ながら税金を免除されています。そしてそのカネは権力者へと渡っていくのです。日本においては、宗教が、弱者からカネを合法的に収奪するシステムとなっています。笑いが止まりません。

為政者だけでなく役人も、異動を繰り返すうちに彼らと懇意になり、秘密を漏洩したり虚偽報告を重ねたりします。それらの事実は、上の意向によって隠蔽され黙認されます。いずれも免職に相当する行為です。

 

権力者と結びついた宗教には問題があります。違法な事もやり放題となります。ラクして儲けられます。得た利益は、利害関係者(ステークホルダー)と分かち合うことで将来も安泰です。彼らは鉄のトライアングルの一角なのです。

他のどんな団体であったとしても同じことです。彼らは誰かをスケープゴートにしていないでしょうか。弱者に厳しくはないでしょうか。どんな暮らしをしているでしょうか。そういった所で本性を見極められるのです。

 

搾取される一般の日本人に目を向けると、彼らはモノを考えるのがいったいに苦手です。考えるくらいだったら、言われた通りに動いたほうがマシだと思っています。外からの刺激がなければ、眠りこけ、文明も退化してしていきます。

堅苦しい社会なので、時々、頭がおかしくなり暴発します。未来に希望があるならまだしも、そんなものはありません。仕事を辞めたくても、辞められません。もっと苦しい生活が待ち受けているからです。恨みが募りますが、自分自身を攻撃することで耐えています。これが一生続きます。「敗残者だから仕方がない」のです。うつ病や自○が増えるわけです。

 

日本人の認識とは異なり、日本はとても危険な社会です。物理的な危害がなくても、精神的に追い詰められていきます。真綿で締め付けるように徐々にです。普通のサラリーマンのように見える人が、電車の中で痴漢を働いたり、暴れまわったりします。「良い人」が、裏で悪口を振り撒きます。表面だけでは、危険を察知することができません。他人を信用できないのも無理はありません。

 

昔の日本を訪れた外国人が、よく「日本人は好奇心が強い」と書いています。好奇心が強いというのは、自分に自信が持てず、周りばかりを気にしているという事です。外国人が中国人に、機械時計のような文明の利器を紹介しても、彼らはそれに惑わされるようなことはありませんでした。自分達に自信があったからです。

一方で日本人は、自分よりいい思いをしている奴がいないか、互いに監視し合い、密告をします。江戸時代に「日本は、世界一、エスピオナージ(スパイ活動)システムが発達した国だ」と外国人に描写されたとおりです。

 

日本人は「好奇心」が強く、周りを常に見ていますが、別に人が好きなわけではありません。自分を憎むように、隣人を憎みます。彼らは良い人と思われるように言動には気をつけます。TVドラマに出てくるような理想的な良い人を演じようとします。しかしそれは不可能な話です。表面だけを飾った偽善者になるしかありません。

 

人に対する興味はありませんが、他人がまとっている権威には大いに関心があります。仕事でも、社内政治に多くの労力を割かなければいけません。「どの部署の誰々はこう考えている。だからこう進めないといけない」「社長の御言葉はこうだった」、そういった事の方が、仕事の本質よりもはるかに大切です。それをないがしろにすると、仕事が全く進みません。原理原則ではなく権威を見て動くのが日本人です。

 

人に興味が無いのですから、社会から落ちこぼれた弱者には、さらに興味がありません。社会の汚点は隠されてしまいます。日本人は、目に見えないものを想像することができません。

彼らは、人権や正義、デモクラシーを決して理解できません。人文科学や美術、音楽にも関心がありません。それよりも、手っ取り早く、カネや権力につながる実学が良いのです。「それはカネになるのか?」これが日本人の合言葉です。教育システムや、その偏りを見れば、彼らがどういう人間を育てたいのかがよく分かります。

 

結局のところ、人間の価値は信用です。カネが無くても信用があればなんとかなります。外国で流暢に話せなくても、信用を築ければなんとかなるのです。

ところが日本人には信用がありません。彼らは上辺を飾るのに夢中で、中身などは無いからです。風向きを見て態度を変える日和見主義者です。彼らは小さなコミュニティに閉じこもり、目立たぬよう、ひっそりと生きていくしかないのです。

 

信頼の構造

ヨーロッパ文化と日本文化 (岩波文庫)

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点 (集英社インターナショナル)