kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

幼児思考の日本人

日本人は幼稚園児と同じです。幼い子供のような考えをします。人格が未成熟なためです。これを仮に「幼児思考」と名付けておきます。

 

成長が未熟なのは、(1)栄養の偏りもさることながら、(2)幼少の頃から繰り返し受けた精神的虐待が原因として考えられます。(3)言語として不完全な日本語の特性もあります。

さらに、(4)抑圧的な社会が拍車をかけています。日本人がどうしても逃れることができない、(5)「ウチ」と「ソト」といった自閉的傾向も要因のひとつです。

それぞれを深掘りしていると長くなってしまうので、上に挙げた点の幾つかについて述べます。

 

ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」は強制収容所で人間がどのような状態になるかを冷静に記述した興味深い記録です。これを見ると今の日本人も、抑圧的な社会で人間性を奪われて拘禁反応を呈しているようにも思えます。

 

収容所において人々は3つの段階を経るとフランクルは述べます。まず第一は不適切な反応です。悲劇なのに、なぜかヘラヘラ笑ってしまうのです。心を守るための防衛機制です。

第二段階では、全てにおいて無感動となります。周りで仲間が殴られても死んでも、何も感じなくなるのです。何時までこの状態が続くのか先も見えません。目的もありません。失業者と同じように抑鬱状態に陥ります。しかし飢餓と睡眠不足で一日中イライラしています。

第三段階はいよいよ収容所から解放された時の状態です。自由を与えられても、彼らは何をしたら良いのか分からず途方に暮れてしまうのです。却って以前に自分が受けていたような権力と暴力を好み、自らも行使するようになります。この状態から脱するには、「自分は喜んでもいいのだ」「自分を喜ばせるために何かしよう」というように、自ら決意して、再度、人間として一から学ぶ必要があるのです。

 

日本人にとっては「ウチ」だけが仲間です。余程の事が無い限り排斥しません。却って仲間を守るためにはどんなウソでもつき、どんな非道な事もやってのけます。その一方で「ソト」は敵です。客には丁寧に接します。しかし一時的なものです。

ところが最近ではネットやSNSが普及したので、日本人は混乱しています。自分の気に入った人をフォローしていても、「ソト」からのつぶやきがタイムラインに流れこんで来ます。ちょっとでも自分の意見と異なるつぶやきは、「ウチ」に土足で踏み込んでくる憎い敵です。激しい攻撃を加えます。

彼らは精神の拠り所を求めます。「日本スゴイ」と言ってくれる人は味方です。「俺もスゴイ」と自分を慰めることができるからです。当たり障りのない事を言ってくれるTVだけが慰めです。ちょっとでも権威に盾突く人は「悪い人」です。

 

また彼らは陰謀論にはまり易い人たちです。哲学や科学の基本を身に着けていない人にとっては、現代の科学技術がまるで「魔法」のように見えています。それは学者とて同じことです。30年前と今ではまるで違うのです。そういった人たちはシンプルな陰謀論に騙されてしまいます。科学よりも陰謀論の方が複雑な現象を分かりやすく説明してくれるように感じるのです。彼らは、高度な文明に接した未開人と同じです。

 

ここで、日本人をいくつかのタイプに分けてみます。

(1)まずは、相手によって節操なく態度をコロコロ変えていく人達です。ウソや誤魔化しを常としており、人間としての一貫性がありません。日本社会ではこの技術は必須であり、下層社会に位置する大部分の人がこのタイプです。笑いながら媚びへつらう様な人間を信用するので、自身も容易に騙されます。

(2)次に「このままでは良くない」と精神的に目覚めた状態の人々です。彼らは精神的な拠り所を求めます。それが「ニッポン」なのです。陰謀論にはまり、敵を攻撃し、宗教の勧誘のように他人にも「ニッポン」を崇拝するように勧めます。

(3)最後はマニピュレーターです。社会の階層を上がっていくと、相手の方が自分に合わせてくれます。どんな我儘も通ります。ここで日本人は幼児へと逆戻りをするのです。また彼らは「ニッポン」の実態を知っています。自分こそが「ニッポン」そのものなのです。それを利用して、人々を使役します。人々は「〇大卒」とか「〇〇省」「〇〇商事」という肩書を聞いただけで平伏するのです。サイコパスやソシオパスに近い人々です。

 

日本人というのは、どう要領良く生きれば、他人からカネをかすめとれるかと考える人達です。「人生において自分は何を問われているのか」などという考えは思いもつかない人々です。 人間として深みがなく、接していて物足りない人たちです。彼らは互いに未成熟な人間を好んで求め合っているように見えます。思い通りになるペットのような存在をです。

 

最後に、日本人の栄養不足について少し話しておきます。

1961年頃の田舎における栄養不足を記録したフィルムを観ました。僻地では「胴長寸胴、低身長、低体重」の児童が多く見られており、食べ物の改善が急務だと訴えています。学校で食べる弁当には、白米の他に、オカズとして芋の煮つけやカツオの削り節ぐらいしかありませんでした。魚を食べるのは祭りなどの特別な日だけだったそうです。

近年、日本人の身長の伸びは止まり、座高は高くなっているようです。鶏肉を食べられるのは未だ良い方で、鶏皮揚げで飢えをしのぎます。肉体的に未成熟であれば、精神も何らかの影響を受けているでしょう。

 

子供の頃から「痩せたソクラテス」などあり得ません。これからの日本人は劣化していく事はあっても、これ以上の成長は望めないのです。

https://www.youtube.com/watch?v=T9w4RkLDg90

夜と霧 新版

適応の条件 (講談社現代新書)

ベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番 (op. 132)第3楽章

ベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番から、第3楽章です。ベートーヴェンは15番の作曲中に重い病にかかりました。この第3楽章は、病気から快復した喜びを描いたものです。コラール風の主題と、自身の健康に感謝しつつ喜びに溢れた主題の2つから構成されています。2つめの主題は、ベートーヴェンが描いた曲の中でも、もっとも美しい調べのひとつです。

15番となっていますが、実際に作曲されたのは第12番の後になります。第11番「セリオーソ」から、ベートーヴェンの曲調が変わり始めましたが、この15番では従来の4楽章構成からも離れ、自由な5楽章構成になっています。

ちなみに第15番の最終楽章はもともと、交響曲第9番の最終楽章となる予定で描かれました。結局、第九は現在の合唱を含んだ最終楽章が採用され、スケッチは第15番の5楽章となったのです。

演奏しているのは、デンマーク弦楽四重奏団です。メンバーはいかにも北欧系といった風貌です。若いですが、ヴァイオリンの音色が美しく、繊細で精緻なアンサンブルを披露しています。

Danish String Quartet  - Beethoven quartet no. 15 in A minor, op. 132

(2つめの主題は、4:00からと 10:07 において繰り返されます)

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第15番/第16番

いつも余裕がない日本人

日本人には余裕がありません。余裕が人間としての深みを与えます。それが豊かな文化や文明へとつながっていくのです。

 

若い見習い士官の日々をコミカルに描いた「スタートレック・ロワーデッキ」というアニメがあります。その第三話はこんなエピソードでした。宇宙船のクルーは、暗黙の了解で、適度な余裕を加味した作業計画を立てた上で仕事をしていました。ところがある士官の告げ口により「虚偽申告は許さない」という艦長の命令が下ったのです。

数週間後、艦内は大混乱に陥ります。バッファーが無くなり、全員が忙しく憑りつかれたように仕事をしています。致命的なミスも次々に起こります。

異星人の襲撃という大事に見舞われても、目の前の仕事をこなすのに懸命で、気にしている暇がありません。最後に艦長は、自分の誤りに気付き、もっとも大切なミッションだけを告げ、あとは現場の裁量によって仕事をするように命じるのです。

 

現代社会でも似たような事が起きています。上がまったく余裕の無いスケジュールを立てると、現場は大混乱です。結果として大規模なシステム障害を起こし、顧客に対しても多大な迷惑をかけます。

 

人は権力の証としてルールを作り過ぎてしまう傾向があります。政治家が思いつきで言った事を役人が忖度して法律を作り、それがシステムの一部として運用されます。

細かいルールは必ず害を及ぼします。終いに人々は何一つ創造的なことが出来なくなるのです。個人でも、シンプルな原則に従って判断するのが一番効率的なのです。即断即決が求められる場面で、保身の為に、いちいち細かいルールを思い浮かべていては手遅れになります。

キリストが「もっとも大切な命令は何か?」と尋ねられた時に「神への愛」と「隣人への愛」と答えました。現代風に解釈すれば「真理への愛」と「人々への愛」という事になります。

旧約聖書にはやたらと細かい規定が沢山書かれています。しかし共感力と知力が共に優れていたキリストは、ルールを定めて「ああせよ、こうせよ」とは決して言わなかったのです。

 

対して日本人を見ると「できるだけ上の地位が欲しい」「カネが欲しい」(でもお上に睨まれない範囲で)という原則に従って動きます。日本人がいつも戦略を過(あやま)てる所以です。

太平洋戦争を始めたのも、なかなか降伏しなかったのも、軍部の面子が何よりも大事だったからに違いありません。真理に即した単純な大原則に従ってこそ、正しい戦略が立てられるのです。

 

日本人は、自分が予測可能な範囲で他の人々が動くことを期待しています。皆が規則に従う事を求めます。そして人々はそれに応えようとします。だから日本人には創造的な活動が不可能なのです。

 

彼らには深みもありません。表面的なことに感心します。何か言われたら素早く反論するような人を「キレッキレッ」と称えます。TVに出ずっぱりのコメディアンや三百代言が最も知力のある人として皆の尊敬を集めています。

実際の社会でも、能力より、もっともらしい事を早口で自信満々に言える事が大事です。詐欺師としての才能です。

官公庁に定期的に提出する報告書には、定まった様式が無いものがあります。資料を作っても、あらゆる質問に対して答えらえるように準備しておかなければなりません。勤務時間の多くをそうした準備に費やします。

これが日本人の言う「説明責任(アカウンタビリティ)」です。広く利害関係のある人々に対する説明ではなく、保身の為に「お上」や上司に対して行う説明が重要なのです。

 

日本人の日常生活でも、あまり遊びがありません。家庭内の会話さえ貧弱です。家の中でも序列があり、それに沿ってコミュニケーションが行われています。

子供は母親の所有物です。そして妻は夫の所有物です。ただのモノに過ぎない対象に愛情を込めた言葉をかけてやる必要はありません。相手も上の意向を忖度して動きます。だから必要最小限の会話だけで済むのです。

言葉をかけたとしても、「勉強しろよ」「歯を磨けよ」「顔を洗ったか」といった程度だったりします。要するに「俺のいうことを聞けよ」と繰り返し言っているのです。

 

1960年代のプロパガンダフィルムを見ました。「無駄な消費をするな、輸入が増えてしまう。外貨獲得が必要だ。設備投資にカネがいる。稼いだカネは貯金しろ」と言っており、人々はそれに素直に従っていたのです。

日本人は今でも貧乏性なところがあります。なんでも節約してしまいます。コンビニの食糧はどんどん小さくなっていきます。人々は食事の量も節約しています。それが健康的だと思っています。しかし健康とは程遠く、多くの人が癌になって死んでいきます。

性行為でさえ「国家を富ませる」という目的が最たるものです。田舎の合同入社式で「少子化を防ぐために異性と遊べ」という訓示がありました。気持ちは分かります。「末端労働者に高度な教育は不要」というのが日本人の考え方です。そのためには経済的余裕が無くても子供を無理矢理作らせる必要があります。

 

同じく1960年のフィルムで、食堂や土産物屋の住み込みで働く若者をテーマにしたものがありました。寝るのは何時も深夜1時過ぎで、早朝5時には飛び起きて仕事の準備をします。「まかないメシ」をかきこむ以外はずっと立ちっぱなし、動きっぱなしです。深夜に皆で共同風呂に浸かる事だけが唯一の息抜きです。

ただ安いメシを提供するだけなのに、何故そんな長時間労働も働かせていたのか理解に苦しみます。休日は月に2~3度しかなかったそうです。

動画では、貴重な休みに繁華街をうろうろする若者を非難し、「青年の家」でフォークダンスを踊る男女を称賛していました。まるで「プローラ」を宣伝するナ〇スのようです。

 

日本人はもともとリーダーシップをとれる人間ではありませんが、教育の失敗により、酷い人物が増えてきました。まともに言葉を喋れない人間が組織を司(つかさど)っています。

賢人は馬鹿の使い方を知っていますが、馬鹿は賢人の扱い方を知りません。馬鹿が作ったおかしな規則に人々は右往左往しています。

 

社会には余裕が必要です。その為には個人レベルでも余裕がなければなりません。そうでなければ、芸術や学究も無く、文化や文明が衰えていきます。

今や日本人は、世界の変化についていく事ができません。「日本には日本のやり方がある」というのが多勢の意見です。変化についていけないから鎖国した方がマシと言うのです。それでいて誰かが何とかしてくれるのを待っています。

 

彼らは他人の言うことを聞きません。それなのに自助努力がなく他人任せです。自分の運命さえ自分で決められないとは、まるで子供ではありませんか。

時間厳守命令

https://www.youtube.com/watch?v=kDpQlKh87TM

おかあさんの学 ―暮らしと経済―東京シネマ製作担当 1962年 - YouTube

昭和35年 働く若者 - YouTube

Have You Ever Seen The Rain

CCRによる1970年の作品、「Have You Ever Seen The Rain」の Emily Linge さんによるカバーです。晴れた日に突然やって来る、嵐のような雨を歌っています。CCRの内部事情を歌ったものとも言われますが、人生における大きな試練や、当時の世相を想起させるような曲です。

www.youtube.com

雨を見たかい

Gentle On My Mind