「スミマセン」は便利な言葉です。謝る場面でも、感謝する場面でも、あるいは状況が分からない混乱した場合でも使うことができます。
ジェームズ・メイが日本列島を訪問する「ジェームズ・メイの日本探訪(James May: Our Man In Japan)」というビデオを見ました。日本でもっとも重要な言葉として彼は「スミマセン」を挙げていました。実際、回転寿司で「箸を縦にして置いた」と些細な事で怒られ、「目の前に出されたフランス料理を撮影用なのに食べてしまった」と言われて怒られ、その度に日本人関係者に対して「スミマセン」と謝って回ります。謝った相手は「そんな事で謝らなくていいんですよ」とばかりに、手を横に振りながら笑っていますが、その前は鬼の形相で怒りを露わにしていたのです。
これは日本人自身も同じですが、他の人が「理由は分からないが何故か怒っている」場合には、とりあえず「スミマセン」と頭を下げて居ればいいのです。
しかし「外人」や他の集団から来た「よそ者」にとっては、この「スミマセン」という言葉はさらに重要になってきます。
先のビデオの中で、ジェームズ・メイは花見に誘われます。「お腹が空いてないですか?」と言われて彼は「あんまり(not really)」と答えたのです。ところが「こういう場合は、『はい!』と即答しなければならない」と彼は注意されてしまいます。「お前の為に特別に作った弁当があるから喜んで食べろ」という意味だったという事に彼もようやく気づきました。
人が何か贈り物を「与える」場合には、当然、相手が喜んでそれを「受ける」、さらに「お返し」をするという事を期待します(贈与交換)。ところが一時的な滞在者である「外人」や「よそ者」はお返しをする事ができません。お客様であると同時に外部者である彼らは、少しの間は過剰に歓待されます。しかし返礼が不可能な彼らは、常に恐縮していなければなりません。それを表す言葉が「スミマセン」なのです。「過分のオモテナシを受けてすみません」「何のお返しも出来なくてすみません」「知らないまま無礼を働いてすみません」「私の為にお手数おかけしてすみません」というように、この言葉を頻用する必要があるのです。
筋の通った理屈はありませんが、日本にはさまざまなルールがあって、それを覚えていかなければなりません。漢字や外来語のカタカナと同じように全てを覚える事は出来ませんが、一生その努力は続き、分からない場合は「察する」事で何となく意味合いを推測しなければなりません。
ジェームズ・メイが食堂や電車の券売機で戸惑う場面があります。外人にとって、券売機は表示が分かりにくい上に、動線も滅茶苦茶で慣れるのに時間がかかります。ところが日本人はよく考えはしませんが、上から言われた手順を直ぐに覚えるのは得意です。
ある日本人のバレエダンサーのエピソードを読んだ事があります。外国でバレエのレッスンを受けていたところ、日本人はすぐに振り付けを覚えます。その一方で様々な国から来た他の生徒はグダグダして一向に進歩が無いように見えます。しかしある程度時間が経つと彼らは素晴らしいダンスを披露し、その頃には日本人はとても追いつけないレベルに達していたりするのです。
日本人は、外人の物分かりの悪さ、日本の風習や新しいものに慣れずに失敗を重ね醜態をさらす姿を見て、声に出して笑い、傲慢な態度で注意をします。まるで「手間をとらせているのだから、こういった事で我々が楽しむのも当然だ」とでも考えているかのようです。こうなるとオモテナシをしているのか、あるいは、虐めて嘲笑しているのか分かりません。
彼ら、よその国から来た人々は、考え理解し咀嚼し、自分なりの判断基準が固まってから行動しようとしているのです。例外規則の積み重ねのような環境では迷うのが当たり前です。日本人のように表面だけをなぞって真似をするのか、あるいは、本質を捉えて筋の通った行動をするのかという違いです。
ジェームズ・メイは厳島神社の鳥居を見て「これはオレンジ色だね」と言います。ところが日本人は「これは赤だ」と言い張ります。実際の色合いと言葉の対応というのは難しい面もありますが、日本人は「鳥居は赤」という固定観念から抜け出す事ができないのです。もしある日本の小学生が「綺麗な橙色だね!」と言ってしまったら、きっと周りから虐められるでしょう。その子は「間違ったことを言ってスミマセン」と謝らなければなりません。こんな所にも本質を見抜けず、ただ周りに合わせて表面だけを糊塗する日本人の性質があらわれているのです。