kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

衆愚と化した日本人

日本人には迷信深いところがあります。暗示に弱く、怪しげな話に直ぐに飛びついて、それが日々の行動を支配していたりします。もともとあった、そういった傾向が、統制のとれたメディアやネットによって、衆愚的な動きがさらに加速されています。野蛮な群衆と化した人々は、為政者にとって都合の良い道具である一方で、他国にとっては危険極まりないものとなります。


以前、TVで「おなら」の特集をやっていました。オナラ漏れに苦しんでいる人に対して専門家が「ご飯を食べれば、一緒に排泄されます、しかも、ご飯は無臭です」と言うのです。「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない 」ならぬ「オナラが出るならウンチをすればいいじゃない」みたいな話です。一つ一つは事実として正しくても、全体になると、とんでもないアドバイスになってしまう事がありますが人々は、「偉い先生が言っているのだから」と信じ込んでしまいます。


ネットでは、雲の形や数字の羅列などに凶事の兆しを読み取り、不安を煽る記事が溢れています。天井のシミが人の顔に見えてしまうようなパレイドリア(pareidolia)は普通の人にも見られる現象ですが、こういった人々はそれに意味付けをして複雑なストーリーを作り上げるのです。妄想気分もあって、単なる偶然の一致が重要な意味を暗示するものとして解釈されます。

何かのシンボルや数字の組み合わせを繰り返し見せると、群衆は勝手に陰謀論に飛び付いて、畏れおののいてくれます。それを煽るようなブログが、さらにその動きを強化します。
バランスの欠けた人は秘密が大好きです。「秘密を持った」という意識の一方で、それを他人に喋らずにはいられません。「秘密の組織が世界を破壊しようと企んでいる、私だけがその秘密を知っている、それを公開するが、秘密を知ってしまった私は命を狙われている」と書き込んで、奇妙な謎解きに夢中になっています。個々の文自体は意味を成していますが、全体になると意味不明だったりします。しかし多くの人達は、このような記事を読んで、「そうか、そういう事だったのか! 頭のモヤモヤが晴れてスッキリした」と感謝するのです。


人は潜在的に持っている不安や恐怖、畏れを、特定の対象に結び付けようとします。例えば好んでホラー映画を見たり、超自然に興味を示したり、台風や地震を神々の怒りと解釈したり、特定の民族を「陰謀を企んでいる」と迫害したりするような傾向です。

「怖いけれど正体を知りたい」とばかりに、こういった情報を得ることによって、少し安心するのです。良く作られたストーリーは、日常に潜む漠然とした不安を上手く説明してくれるように思うのです。多くの人々は、分からないもの、不明なものを、そのまま事実として頭の中に留め置くことができず、その曖昧さ、不安に耐えられないのです。
科学を容易に信じない一方で、流言や風説の類いは簡単に信じてしまいます。YouTube の優れたレコメンド機能によって「日本スゴイ」という動画が沢山出て来ると、「世界は日本を称賛している」とつい思い込んでしまいます。

インターネットは自ら情報を選択しているような幻想を与えますが、実際には、真偽の明らかでない非常に偏った情報によって洗脳されてしまうのです。しかし多くの人は、「みんながそう言っている」と、ますます自分の考えに自信を持ってしまいます。


こういった人々は自分の無意識にある真の動機に気付くこともなく、極めて浅い思考で刷り込まれた言葉を反復しています。教育は受けていても、理性ではなく感情により、一方の極から、もう一方の極へと激しく揺れ動く人々です。

数千年に渡る文明の果実を凝縮した形で享受しているはずだった、我々の受けてきた教育とは一体何だったのでしょうか?

 

大昔の人々は、周りにある自然や、収穫、祭り、結婚や葬式などがそれぞれ大きな意味を持ち、現在の人々よりも、ある意味ドラマチックな人生を実感していました。現代では情報量こそ増えたものの、その個々の価値は低減し、具体的な体験は減っています。理想は消滅し、具体的で、手っ取り早い富や栄光を人々は求めます。文明の発達とは逆に、人間としては野蛮な人々が増えてしまったのです。しかし彼らは生来の愚鈍さと傲慢さから、決してそれに気付くことがないのです。