kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

論理や倫理を持ち得ない現代の日本語

以下はデカルトの「方法序説」からの一節です。

「私自身について言えば、一般の人々と比べてどんな点においても自分の方が完全であると考えたことは無かった。それどころか、他の一部の人達と、素早い思考や、明確で鮮明な想像力、必要な時に十分に想起できるような記憶力において同程度であればよかったと私はしばしば願いさえした。それらと並び、理性や良識に関しては これ以外に精神を完成させるのに貢献するいかなる資質も私は知らない。というのも、我々を人たらしめ獣と区別する唯一のものである限りにおいて、この点で哲学者が言う、良識の多寡は『偶有性』の中にあるだけであって同一種の個人における『形相』や性質の中にでは無いとする一般的な意見を採用したいのだが、私は理性を個々の人々の中に完全な形で見出せると信じたいのだ。」

"Pour moi, je n'ai jamais présumé que mon esprit fût en rien plus parfait que ceux du commun; même j'ai souvent souhaité d'avoir la pensée aussi prompte, ou l'imagination aussi nette et distincte, ou la mémoire aussi ample ou aussi présente, que quelques autres. Et je ne sache point de qualités que celles-ci qui servent à la perfection de l'esprit; car pour la raison, ou le sens, d'autant qu'elle est la seule chose qui nous rend hommes et nous distingue des bêtes, je veux croire qu'elle est tout entière en un chacun; et suivre en ceci l'opinion commune des philosophes, qui disent qu'il n'y a du plus et du moins qu'entre les accidents, et non point entre les formes ou natures des individus d'une même espèce." Discours de la Méthode

逐語訳でしたが、今度は正確さを犠牲にしてでも分かり易い表現を試みてみます。

「私は、自分が他の人よりも何らかの点で優れていると思った事はなく、それどころか、他の人のように、速く考えたり、はっきりと想像したり、思い出せたりしたらよかったのにと考えたものです。これらのものと同じように、理性というのは、精神を良いものとするのに大切で、私たち人間を動物と違ったものにしているこの理性は、すべての人の中に見出すことができると私は考えています。と言いますのも、理性が多いとか少ないとかいったことは、たまたま表面においてそうなっただけで、人間本来の理性は完全であるという、哲学者の意見に私も賛成するからです。」

こう書くと有り難みは少ないですが、ごく普通の事が書かれているというのが分かると思います。

 

分かり易い文章とはどういったものでしょうか? 

例えば新約聖書福音書に、今でも多くの人達を捉えるものがあるとすれば、それは弱者や罪深き人々への同情や愛情が、語られる人柄から伝わってくるだけでなく、その比喩を多用した表現、ありありと眼前にイメージできるような描写、まるで個人的に話しかけられているような話の進め方にもあるのかもしれません。

 

語りかけるように書かれ、声に出して読んだ時にリズミカルで気持ちが良く、ひとつひとつのパラグラフが適度な長さである、同じ単語の繰り返しは避け、変化があり、さらに誰でも読んで分かる表現や比喩が使われ、面白く読むこともできる、そういった文章がひとつの理想ではありますが、また、出来るだけ文章全体の長さは短くしながらも情報を詰め、曖昧な語句を避け、簡潔な文体で正確を期すという書き方もあります。いずれにしても書き手が最も伝えたいと思うレベルで、その意図が、最も伝えたい読者に伝わればいいわけです。

 

しかし現代においては、情報を口頭で伝える機会や重要性が相対的に減り、それに従い、口語体の退化、言文の乖離、ひいては言葉全体の退化が起こっています。

 

言葉の退化は論理の欠如へとつながります。

日本人は言葉を視覚的に処理していると言われますが、視覚処理は並列的に処理できる一方で、聴覚処理は時系列で入力されて来る単語や接続詞を使って自分で構造を組み立てていく必要があります。日本の教育で作文は重視されていませんが、書く場合も、込み入った思考をひとつの時系列の流れとしてつむぎだす必要があります。 日本人がもともと論理に弱いのはこういった所にも原因があるのでしょう。

論理に弱ければ、体系だった倫理感を持つ事も難しくなります。

  

日本人自身が、自分達が考えたものにあまり価値を認めず、外国からの翻訳や引用をやたらと有難がる傾向があるのは、もともと自分達に論理的で価値ある考えなど、作り上げることはできないのだと、無意識に思っているからかもしれません。 

権威の裏づけが無い限り、口達者な人が居ても、詭弁を弄し騙そうとしたり、何かを誤魔化そうとする怪しい奴と思われたりします。

言葉を軽々しく扱ったり、あるいは逆に、神棚にでも祭るように仰々しく使ってみたり、そういった言葉に対する不当な仕打ちを止めない限り、日本人が論理と倫理を身に着けることは永遠に出来ないでしょう。それを変える為には、言文一致運動以来の、根本的な国語の改革が必要なのかもしれません。