kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

日本人が長所と考えてきたもの

日本人には、自ら長所と思ってきた幾つかの特性があります。それはどういったもので、今でもそれは受け継がれているのでしょうか。

 

(1)集団主義

自我が不確かな事から来る集団依存主義は、個を捨て共同体が目指す方向に皆で一斉に動く事により、大きな力を発揮してきました。明治政府が作ったシステムは、怠け者で程度の低い日本人を効率的に画一化し、国力増強の手段としていくものでした。

国民はあくまで国力増進の為にくべる薪に過ぎず、個々人の幸せや、ましてや人権はどうでも良かったのです。日本人の精神的崩壊はここから始まったのかもしれません。

「上の命令だ」で一斉に動くが、責任は誰もとらないで済むのは、個人にとっても都合の良いものでした。「~軍は永遠に不滅です!」「日本スゴイ!」のような信仰とも言える集団への忠誠心や幻想は未だに保たれています。

 

(2)完全主義

日本人には強迫的な傾向があって、完璧を目指そうと心がける事が勤勉に繋がり、モノ作りにも貢献しました。仕事だけでなく趣味においても、分野毎に「師匠」がおり、その猿真似をしながら「自分はどのレベルまで達したか?」と振り返りつつ、その段位や地位を競って「修行」するような部分がありました。「私は未だ未だ」と言いながらも、各自、心のなかでは誇りに思っていたりしたのです。

しかしそれが「真面目にやるなんて格好悪い」「快楽が得られれば何でもいいじゃないか」となり、「カネが貰えるなら、何処にでも出かけて、全てかっさらう」という完全主義が日本人の心を支配しました。

仕事や趣味における凝り性は、「ネクラ」や「ヲタク」として敬遠されるようになりました。趣味に没頭し、それを熱く語るような人物は「おかしな人」「危ない人」と目されるようになったのです。「あの人、技術者だから」というのは「人間的なスキルが身についていない」という見下す言葉であり、真面目に技術を追求したり新しいものを生み出すこと自体が軽視されるようになりました。

自分達は完全性に向かって何一つ努力しない一方で、「世界で活躍する日本人」や「日本」それ自体に過大な期待を抱き同一視するのです。完璧な日本像に固執するあまり、都合の良い時には外国人でも日本人扱いをする一方で、都合が悪い場合には日本人でも根拠無く「在日」呼ばわりして叩くような露骨な差別をします。

彼らは、もはや価値あるものを何も作っていないのに、意味無く人々を働かせようとする仕組み作り、そういった事にだけは今でも一生懸命になっています。


(3)謙遜

日本人は長らく自分達を慎み深い民族だと考えていました。階層の中での自分の立ち位置を常に考え、「あの人に比べればマダマダだな、自分も頑張ろう」等と言って卑下しています。師匠の完全さを前にして、予め自嘲する事により、「お前なんぞ」と言われて恥をかかされないように防衛線を張っておくのです。

敗戦によって日本人は、一時的に国全体が「謙遜」を持ちえたかに見えました。ところがカネが回るに連れて、拝金主義になって仕舞いました。いったん上辺だけは頂点を極めたので、日本は少なくとも「アジアの中ではトップである」という幻想に未だに浸っており、謙遜さを失って傲慢さだけが目立つようになっています。

 

(4)人情と曖昧さ

かってよく言われた「義理と人情」ですが、社会に内在する階層構造や「義理」で縛られた社会は、共同体の甘ったるい「人情」によって覆い隠されていました。昔の日本人は、任侠ものの映画や、ドラマに登場する薄幸の女性に、同情したり涙したりしましたが、明るさを追及する風潮の中で、そういったものは消えていきました。社会の真実を直視すること、そして階層の下にある弱者や少数者は、価値の無いものとなったのです。

こういった事が弱者の切捨てやイジメを加速していきました。社会の掟はますます厳しくなり、「タテマエ」で縛り「ホンネ」で叱り飛ばすような社会となり、人の暖かみが全く感じられなくなったのです。

以前はお上が社会規範を制定し、下の共同体は「そこのところはマアマア」と人間味で融通する部分があったのです。上は未だに「マアマア」で動いていますが、下はそうはいかなくなっています。時間通りに職場で座っていればお金が貰え、適当にサボる事も出来たのですが、無駄で不必要な仕事が増え余裕が無くなっています。

今やこの国は、「日本や企業を発展させるにはどうしたらよいか」という思考には至らずに、ただ誰かを働かせる為だけの、意味の無い法律や規則、仕事を生み出す人々で溢れかえっています。

 

(5)ホンネとタテマエ

日本人は時代を問わず性根は卑しい人々でしたが、「ホンネ」を「タテマエ」で覆い隠す術を心得ていました。慎み深く質素を好むような振りをしながら、いざ「誰も見ていない」「皆がやっている」という状況になると、下種下劣さを表に出していたのです。

しかし敗戦によって偉大な神国があっさり負けて仕舞い、美しかった「タテマエ」は一旦消失してしまいました。戦後は「新しい日本を作る」という当初の気概は何処へやら、欲を丸出しにして「儲かればいいじゃないか」となりました。物理的なものや口先で表面を薄く覆う事が「タテマエ」になり、精神的なモラルを担って来た「タテマエ」は消えたまま今に至っています。 

 

 

(6)階層構造

日本は階級社会では無い事になっていますが、厳しい「タテ」の階層に人々は縛られています。卒業した学校によって順位が定まり、勤め先や何期生であるかによってまた上下があります。日本人は「自分の分」を見極めて生きていく事が望まれています。

成員が「分をわきまえること」で社会が安定したのです。お上から見て「御しやすいこと」が理想の国民であり、日本人が言う「民度が高い」というのはこういった人々を指します。

人々がどんどん下層に滑り落ちて行くに従い、彼らはより下に位置するものを求めています。弱者を虐め、格下と考えている国を口汚く罵る一方で、奴隷となって働いてくれる外国人を求めています。

 

(7)攻撃性

攻撃的とも言える日本人の積極性は、日本社会の活性化に寄与してきました。彼らはサディスティックな凶暴性を持っており、それが戦争で無謀な攻撃をしかけたり、暴利を貪ぼる傍若無人な態度となって現れたのです。

「俺はダメな男だ」「日本はマダマダだ」と自嘲したり卑下したかと思うと、いきなり暴力を振るったり卑怯な手を使ったりして「日本は世界一だ」と有頂天になります。これを個人でも国単位でも繰り返しています。最近の「日本スゴイ」という風潮から、また、途轍もない暴挙に出るのも間近でしょう。

 

日本はこのように言われてきました。すなわち、人々が秩序正しくルールを守り、礼儀正しくて勤勉、そして人情味溢れる温かい社会であり、犯罪も少なく社会が安定している、という具合にです。

しかし今や、こうも言えそうです。日本人は、自ら創造する事は無く猿真似するだけの怠け者だが、表面だけ取り繕って傲慢に他国を非難し、弱者をいたぶり、時々ヒステリックに怒り狂い集団で攻撃をしかける、モラルが欠如した人々で、自浄能力が無い民族であると。

集団依存だけは今だに強いように見えますが、いざ災害が起こったり負け戦となれば、お互いに争いあったり殺し合いを始めてしまうような人々です。

信念を持たず、必要性から我慢し合って暮していた人達で、それなりに複雑なシステムを作っていましたが、心に核となるようなものが無ければ、たちまちの内に瓦解してしまうのです。