kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

暴力を好む日本人

日本人は暴力が大好きです。精神的な暴力はもちろん、物理的な暴力を振るう事も好みます。

 

昔、列車に乗った際に、シーズン中だった事もあり、席が取れず立ち乗りとなりました。その中に埋もれてしまう様に親子三人連れが居たのですが、渋い顔をしていた40歳代の父親が、突然、旅行の道中ではしゃいでいた8歳前後と思われる自分の子の頬を拳骨で殴ったのです。当然子供は泣き喚き、車内の雰囲気が悪くなってしまいました。押し黙ったまま威厳を保とうとするさま、またその殴りなれた様子から、彼は教職にある人ではないかとその時は感じました。

 

教師と言えば小学生の頃、何かのルールを守らなかったかで、殴られた事があります。廊下に皆で正座させられ、次々と頬を殴られていくのです。海軍の精神注入棒ならぬ、ケツバットもありました。こんな事が当たり前だったのです。

 

また、中学校ではガンをつけられた等でよくトラブルや殴りあいの喧嘩が起こりましたので、皆それぞれ工夫をし、目を合わせずに歩いたり、目立つことをしないように気をつけたり、進んでパシリになったり、試験で答えを教えてあげたりしていました。一度、トラブルになったので主要グループのメンバーを一人殴りました。外側から内側に入る若干フック気味のストレートで、相手が右の頬を向けたら、右頬を叩き、左を向いたら左を叩き、相手も当然反撃して来ましたが頬骨を中心に攻めたので、そこが内出血して腫れあがり、床に突っ伏してしまいました。そのことがあってから「○○が好きだったよね、これあげるよ」とその子から写真集を貰ったりするようになりました(笑) 学校は一種、治外法権の場です。先生は見て見ぬ振りをし、死人でも出ない限り警察が介入することは無いのです。

 

以前ある会社(毎年就職希望ランキングの上位にあるような大企業です)で、暴力沙汰を目にした事がありました。一室でリーダーが相手を椅子に座らせて「なぜ、こんな事をした?」と責め立てます。時々椅子の脚を蹴飛ばし、たまらず、相手の男は「スミマセンでした…」と土下座をしますが、胸ぐらを掴んで立たせ、今度は腹に拳骨を叩き込み、ビンタをするわけです。

 

頬を殴る、平手打ちする、腹を殴るというのは証拠が残り難いので、暴行の手段として良く使われます。さすがに大きな企業で表立った暴力を目にする事はありませんが、下々の者や、協力会社員を使って裏で何をしているのか分かったものでは無いのです。

 

通勤している人々にも、凶暴さの片鱗が伺えます。電車の乗り降りの際、あるいは混んだ地下鉄駅構内で、肩がぶつかったとか、足を踏まれたとかでサラリーマン同士殴り合いの喧嘩になるなんて、文明社会では日本だけかもしれません。喧嘩にならずとも、お互いに振り向き睨み合いながら、すれ違っていきます。電車の中では腕がぶつかったかどうかで、またトラブルです。ちょっとした事では相手も見ずに「スミマセン、スミマセン」で曖昧にしてしまうのですが、ある閾値を超えると怒りが爆発してしまいます。本当に連中はどうかしています。

 

外では立派な会社に勤めている家庭思いで親切な人とされていても、家庭内で暴力を振るっていたり、電車で痴漢をしたり強姦をしたりします。昔の「私をスキーに連れてって」という映画では、商社で課長が部下の社員を妊娠させたという逸話が武勇談のように語られる場面があります。暴力やイジメや強姦は、自分の存在を確認する手段として日本人に必要なのです。

 

日本人は中身がいくら下種で暴力的でも「タテマエ」で表面を取り繕う余裕が昔はあったようです。ところがある時期を境に、カネや快楽を追及することが「良いこと」であり、その結果を大っぴらに享受し威張り散らすことがステータスでもあるかのように考えるようになったのです。

しかし貧乏国となるに至って卑しい下劣さだけが目に付くようになりました。「自分さえ良ければ他はどうなってもいい」という傲慢さを伴った暴力的傾向が皆の心にくすぶっています。爆発寸前の火山、それが今の日本の状態です。