kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

言葉や理性が劣化し、文明を維持出来ない人々

音楽は頭の中に様々な情感を呼び覚ましてくれます。主旋律に対してAという情感、副旋律に対してBという情感、ハーモニーに対してCという情感、曲全体でDという情感が、時間と共に生まれては消えていく、それが音楽を聴く楽しみのひとつだったりします。ところが必要の為、機械的に聞きすぎた曲はもはや、何の情感も生み出さなくなってしまうことがあります。却ってたまにしか聴かない曲の方が、初めの頃の情感をいつまでも呼び起こしてくれる場合があります。

 

言葉にもそういった所があって、例えば、笑い話でよく取り上げられる「掘った芋いじるな」というような音の並びを聞いて、「時間を訊かれている」という情景がパッと思い浮かび即答できる人も居れば、その音がどうしても繰り返し習った「ホワット、タイム、イズ、イット、ナウ」に結びつかない人も居るわけです。

 

小中学校の国語の朗読では、多くの生徒がたどたどしい感じでしか読むことが出来ません。知らない漢字の前でつまずき、単語単位で中断し、助詞はそれぞれ独立しているかのようです。どう抑揚をつければ良いか、どこで一気に読み、どこで区切るべきかというのがまるで分かっていないのです。しかしあまりにも流暢に読んでしまったりすると、それはそれで目だってしまうので避けている場合もあります。いずれにせよ、読み方の流暢さなどは成績にあまり関係ないので、おざなりです。また、黙読は出来ているとしても、彼らの多くはまともに文意を理解出来てはいないようです。「杜子春」「山月記」「走れメロス」を何か道徳的な物語と勘違いしているような人々です。

 

日本人はひょっとすると言葉を聞いたり話したりというのがもともと苦手なのかもしれません。(時間を訊くとき)=「掘った芋いじるな」という「結びつき」は頭の中に存在せず、その音を聞いても理解できない、また、文章を考える時には、いちいち頭を振り絞って文法や単語を思い出して最初から考えなければなりません。

外国語だけでなく日本語でもそんなところがあり、いきおい彼らは常套句に頼ることになります。「突っ込みどころ満載」とか「気づけよいい加減」「バカなの? 死ぬの?」という、リズミカルだが失礼な言葉を無遠慮に公衆の場で繰り出します。TVを見ると笑い声と嬌声、あまり意味をもたない感嘆詞や単語ばかりが聞こえてきます。下手をすると、それこそ聞き手は「ふ~ん」「なるほど」「大変だね」で会話が終わってしまいます。

 

昔ある作家へのインタビューで聞き手がこう尋ねていたことがありました。「小説を書こうというお考えの中には、そういう芸術に対する愛情愛着、自分というものをね、小説で主張してみようっていうような、意識した考えがあったんですか?」

この文だけ取り出すと「芸術に対する愛情愛着を表現したい、さらに、自分を主張したいという、はっきりとした考えがあって小説を書き始めたのか?」と訊いているのか、「芸術に対する愛情愛着をもった自分を主張したいという、はっきりとした考えがあって小説を書き始めたのか?」と訊いているのか、明瞭に分かりませんが、訊かれた方は間髪を入れずに答えています。

確かに、あまり筋道だった訊き方をすると角が立ち「こいつは常識の無い頭のおかしい奴ではないか」と思われるので、「こちらはあなたを理解していますよ」というフリをし、相手の様子を見ながら、ある程度、盛ったり、あるいは端折りながら訊くのは日本では仕方がないという面もあります。いずれにせよ、「どっちでも大して変わらないじゃないか」というのが大方の日本人の反応かもしれません。

 

とはいえ、日本人はこういった、長ったらしい、ポイントが分かり難い質問をするのが好きです。無思慮に、あるいはよくよく準備し過ぎての事でしょうが、互いに良く知った相手なら未だしも、そうで無い人にも平気でこんな質問をして、聞かれた方も最後の質問にだけ答えたりします。

昔は、言葉を慎重に選びながらゆっくりと質問する人も居たのですが、今は立て板に水で意味の無い事を流暢に喋るような人が好まれます。アナウンサーなどは、アニメ声優のように芝居がかった大仰さを備えた喋り方で、まるで通販の宣伝のようです。そのうち将軍様を称え上げ感極まってウソ泣きをするアナウンサーも出てくるかもしれません。朴訥とした一般の日本人は、このような中身が無いことをスラスラ喋る人達を尊敬し、信頼を寄せます。

 

以上は話し言葉についてでしたが、文章を速く読む場合にはいちいち音には変換しない場合もあるので、日本人はたぶん視覚的に言葉を処理できているのでしょう。漢字があるのもそれを助けています。しかし困った事に日本人には、読めない漢字、分からない単語や熟語があっても何となく分かったような気になって読み進めてしまうという傾向があります。新語を聞いても何となく分かったような気になっています。それどころか、カタカナで表現される外来語、さらにはアルファベットの三文字略語まで、よく調べたり訊いたりもせず分かったようなつもりで直ぐに使っていたりします。ネットが普及してからは「自分にとって利益になる情報は無いか」と、適当に読み飛ばすのが普通になってきています。

 

このように多くの日本人はよくよく考えもせずに会話をしたり、読んだりしています。最初の一人がよくよく考えて発言したり、文書を用意したりしても、幾人もの手を経て、主眼はすり替わり、推敲すべき文章は次第に滅茶苦茶、支離滅裂となっていきます。中身そのものよりも、言い方や、言葉尻、感情を呼び起こす単語に、敏感に反応します。こうして出来上がった文章や方針は、大きな集団レベルでも、およそ理性を感じさせない、狂人のように感じられます。

 

日本人は自ら議論を進めて文明を発展させるというのには向かない人々なのでしょう。言葉がこれでは、まともな理性も育ちようがありません。こんな人達がよく西洋文明を真似たシステムを維持できるものだと感心しますが、彼らは手続き的知識だけは覚えることができるのです。農作業の手順を覚えるように、「この時には、まずこれをやって、次にこれをやり・・・」というのを理屈抜きで覚えていくのです。

日本列島に大陸の文明が流入するまで、人々の会話は「あー、うー」といった程度のもので、身振り手振りで互いに意志の疎通を図っていたのかもしれません。彼らには大昔の素朴な農業や狩猟生活がお似合いです。

末端の人々も含めて国力がある時に、異文化の言葉やモノが流入すると一時的に発展しますが、そうでない場合には、どんどんとおかしな方向に突っ走っていく国です。言葉や理性が劣化した国に、近代文明を維持する力は残っていないでしょう。