「世界を構成する究極の要素は何か?」という問いに意味はあるのでしょうか。
もしも仮にコンピューターの仮想世界の中に住人が居て、「1とは何か」という問いを探求し続け、その結果「1とは、0001だった!、2とは0010だった」と喜んだとしても、我々からすれば、それ自体はあまり意味がありません。ひょっとしたら場合によっては「1は、010,010,010だった」となるかもしれません。
結局のところ、極小の世界に行っても、あるいは極大の世界にいっても、無限に直面し、どうしても端が見えないという状況に人類は直面し続けるだけという可能性もあります。
極小のひとつひとつのピースは分からない、また、究極の全体像も分からない、だがしかし、ある決められた範囲では、こういう風に物事が関係しあっているというのが、人間にとってせいぜい掴めることであり、また意味のあることなのかもしれません。
そうやって、関係性によって成り立つモデルや理論が、さらに別のものに取って代わる、あるいは、もっと巨大な理論に編入される、そんなことを永遠に続けていくだけだという事です。
人間同士のコミュニケーションも、結局は、関係性の翻訳に過ぎません。「あの人はこういっているけれど、それは自分が考えていた、これこれの事に当てはまるのだな」という理解をしているのです。
もちろん、体系を構成する、ひとつひとつのピースとしての単語や概念を、知識として覚えていかなければなりませんが、それらをどう結びつけるかという関係性の構築は、自身の頭にあるもので行っていかなければいけません。
「分かった」というのは、「自分の言葉で置き換えることができた」ということです。本を読んでも、自分が既に知っている事の確認や明確化に過ぎません。逆に自分の中に、そういう雛形が元々無ければ、いくら読んでも理解できないでしょう。
また、人に何かを伝えるにあたっては、相手の立場や体系にを念頭に置いて、分かりやすく述べるべきであって、難しい言葉や専門用語を出来るだけ使わずに説明するのが、困難ではありますが、望ましいわけです。
人生の中で人は、頭の中にある関係性を、新しいもので塗りかえるという事を、絶えず繰り返しています。環境の変化が起こって初めて人は認知することが出き、それを自分の中にある関係性や体系に組み込んだり、あるいは、それまでの体系を捨て去り、新しい体系を構築したりする訳です。
こういった行為によって、人々は世界の変化に対応していきます。人は誰でも自分中心、人間中心に考える傾向がありますが、絶対的な存在や他の体系に気が付き、自分の体系を再統合する事によって新たな発見をしたり、より良いやり方を手に入れる事ができるのです。
この世界に、もし無限性と、絶えざる変化が無ければ、とっくの昔に人類は退屈から来る苦痛に耐えられなくなっていたでしょう。幸いな事に、両方向における無限性と、無常によって、人々は刺激を受け、絶えず、関係性を更新して知的な喜びを得ているのです。世界の探求は、同時に、自分の内的な探求でもあるわけです。