kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

感情が未分化な人々

未開人は時として感情が十分に分化しておらず、文明人にとっては理解し難い動きを見せることがあります。

 

芥川龍之介は「手巾(ハンカチ)」という作品のなかで、心の中で苦しんでいながらも、微笑みながら息子の死を語る夫人を描写しています。

"こんな対話を交換してゐる間に、先生は、意外な事実に気がついた。それは、この婦人の態度なり、挙措(きよそ)なりが、少しも自分の息子の死を、語つてゐるらしくないと云ふ事である。眼には、涙もたまつてゐない。声も、平生の通りである。その上、口角には、微笑さへ浮んでゐる。"

 

また中島敦は、突然態度が豹変してしまう、南洋群島の老人の様子を「鶏(にわとり)」という小説で次のように描いています。

"例えば、私が一人の土民の老爺と話をしている。たどたどしい私の土民語ではあるが、兎に角一応は先方にも通じるらしく、元来が愛想のいい彼等のこととて、大して可笑(おか)しくもなさそうな事を嬉しそうに笑いながら、老人は頗(すこぶ)る上機嫌に見える。暫くして話に漸(ようや)く油が乗って来たと思われる頃、突然、全く突然、老爺は口を噤(つぐ)む。初め、私は先方が疲れて一息入れているものと考え、静かに相手の答を待つ。しかし、老爺は最早語らぬ。語らぬばかりではない。今迄にこやかだった顔付は急に索然たるものとなり、其の眼も今は私の存在を認めぬものの如くである。"

 

この老人は、外からの客に初めは愛想よく接しているのですが、いつまでも話を続けて帰ろうとしない相手に対し、突如、傲慢な態度へと転ずるのです。

日本人もヘラヘラ笑っていたかと思うと、突然、腹に収めていた感情を露にし、怒り狂って「抗議だ、提訴だ」などと気が触れたような行動をとったりします。頭があまり発達していない人々は、理性を持った者には一見不可解に思えるような過程を経て、突如、激しい攻撃を開始することがあります。

 

彼らは未発達である為、他人や異文化の人々の繊細な感情を理解することができません。自分達に都合の良いように、それらを勝手に「翻訳」したりします。

以前、何かの番組で、オペレッタ(Operette)に対して抱くオーストリアの人々の心地よい気持ちを表すのに、"Gemütlichkeit"という言葉を紹介していたのですが、浮気を扱った作品であった為か、最後に「曖昧にしておくことの大切さを感じます」などと司会者は珍妙な纏め方をしていました。

 

感情のなかでも、微笑みは、威嚇の表情が和らいだものだという説があります。動く影を見て、目を見開き犬歯をむき出しにしようとするが、それが仲間だと知るや、威嚇とまではいかない、中途半端な表情で留まる、それが微笑みの始まりだと言うわけです。

日本人の微笑みも、自分の不安を誤魔化しながら、敵ではないことを示すと同時に、相手より上に立とうとする傲慢さをも含んだ奇妙な表情です。

また、日本人の礼儀正しさや慇懃無礼は、無意識の恐れ(畏れ)や不安が、敬意という形をとったものであり、あまりにも馬鹿丁寧な言い方は、見知らぬ者への軽蔑の表現であったりします。

こういった未開人の裏表のある感情表現より、例えば洗練された作り笑いの方が未だ文明的です。気持ちの良い微笑みは、他人と接する際のマナーのようなものですが、そういった笑顔が人を救う事もあります。

 

おそらく、日本人の気持ちの底には不安や恐怖が通奏低音のように流れており、そこに時折、性欲や食欲、あるいは安全を脅かされたが故の恐怖と怒りが露骨に現れるのです。

洗練された表現が無く、抑圧され無表情で黙っていたかと思うと、一転、直裁的な表現をとります。最も低劣な人々が公共の場で、拳銃やペニスを振り回し一般人を追いかけ回す、それが許されていたりします。不安や過剰なストレス、自尊心の崩壊、周囲への興味の喪失から、公共の場で自慰行為にふけってしまう人も居ます。

それでも人々は「日本ほど平和で安全な国はない」と信じています。外国で邦人が殺されたというニュースに接すると、「治安の悪い国に行くからだ」と、彼らは怒りを込めて非難します。自分の不安の原因を分析出来ずに「何々人は無礼だ!」とそれを転嫁することもあります。

 

成長が不十分な人々は、低いレベルの欲求を満たすので精一杯なのです。睡眠、食欲、性欲、安全を守るだけで日々汲々としています。満員電車の中で吊るされた肉のように揺れていますが、安眠を妨げられると不機嫌になり争いを始めます。

「B級グルメ」や「ご当地グルメ」が大好きで、炭水化物に、大量の化学調味料と砂糖で作られたような代物を長時間飽きずに並んで食べ、「日本の食べ物は安くて当たり外れが無い」と無邪気に喜んでいます。

日本では「愛している」という言葉は「ファックしたい」と言っている様なもので、彼らは中身が誰でも似たり寄ったりの下種共である事を互いに承知しているが為に、出来るだけ見た目の良い異性を探し出して快楽を貪ります。

さらに「安全」を得るために、(日本では)ランクの高い大学に入学して、医者や役人となったり、大企業に勤めることを目指し、金や地位を保証してくれそうなパートナーと結婚したり、逆に寄生されたりしています。

 

日本人が自画自賛する、表面的な感情表現や礼儀作法ですが、それらは例えれば、腐臭を放つ肉団子のようなものです。グロテスクで、口に入れると濃い味付けで食べれない事も無いのですが、まがい物をミンチにして混ぜ合わせ成型したものであり、有害なモノで満ちているのです。