日本人は深く考えようとせず、表面的な知識だけを身につけて生きている人達です。
以前、昇進試験を受ける人がいて「『こんな感じの問題が出るかもしれないよ』と教えられたので勉強しておきたい」と言うので、模範解答を書いてあげました。後日尋ねると、彼は解答を一字一句丸暗記してその通りに答案を書いたそうです。単なる暗記より理解した方が結局は速いし応用も効くと思うのですが、多くの人はそう考えず、傾向と対策を調べ、暗記やパターン認識の訓練にいそしみます。
彼らはまるで、単純な「刺激ー反応モデル」のように行動しています。人々が「分かっている」と言う時は、単に「似たような言葉を聞いたり見たりした事がある」「学校で習った記憶がある」という程度に過ぎなかったりします。気持ちの良い音の響きにだけ反応し、言葉のロジックなど理解する気がありません。義務教育で「おべんきょう」したはずですが「対偶("Contraposition")」などの論理学の基礎も理解していない人が多々います。そうした一方で、頭の容量が足りないのに、画数の多い大量の漢字を覚えようと必死です。
そもそも日本人が使っている言語が他と比べて著しく劣るものなので、彼らは時間や空間上に物事を正しくマッピングしていく事が出来ません。日本語は時制も相手もどうでも良いという、「オレオレ」的な、いわば自分本位の言語です。
例えば英語では相手の立場になって視点を移動していきます。妻を呼ぶのでも "his mother"と言ったり、「了解した」と言うのでも、"you got it" と言ったりします。また助けが必要な場合には、きちんと "can you help me?" と言う事ができます。また日本語では絶対的視点がなく、再帰代名詞にあたるようなものがありません。ですから、"je m'appelle" という言い方には違和感を持ってしまいます。日本では「花子はこれが好き!」というように自身を呼ぶと嘲笑の対象となります。さらに日本人は相手の名前を言わないで済むのなら、出来る限りそうしようとします。他人を個性的な主体として尊重する気持ちは微塵もないのです。
言語構造だけでなく、彼らが気づくことの出来ない幼少期の精神的虐待や育った環境のせいか、彼らは他人や人間全般に、とても冷たい感情を持っています。例えば古代ローマで、使用人が大切に扱われ病気になると彼を医者に診せたという話を聞くと日本人は驚きます。この反応の異常さは「クルマが故障したら修理に出すのですか?」という質問と比べてみると良く分かります。彼らにとって人間は、高価な機械とは違って、タダで使え、メンテナンスが不要な、使い倒せるモノ以下の消耗品に過ぎないのです。
また日本人は表面的な知識を身につけながらも、本質には疎い人々です。日本人は新聞に載っているような調子で政局を論じるのがインテリの証であると思っています。狭い世界の瑣末な出来事を語りますが、それでいて大事な事には決して目を向けません。エドガー・アラン・ポーが、小利口だが核心を捉えられないパリ警視総監を皮肉るのに、引用を使ってこう表現したような人々です。'de nier ce qui est, et d'expliquer ce qui n'est pas.'(存在するものを否定し、存在しないものを説明する)。
日本では、海外の学者の業績を切り貼りして日本語で紹介する人達が「学者」と呼ばれます。反対に流暢な外国語を喋るのは下々の連中の仕事です。「教養ある人々」は、日本人が居る前では出来るだけ黙っていて、どうしても話す必要がある時にはリズムも抑揚も無い平坦な日本語風発音を用い傲慢な態度で語らねばなりません。
暴力的で性的な表現に満ちた映画やアニメも、日本人に言わせると「絆」と「寄り添う」事の大切さを描いた物語となってしまいます。彼らは本当に好きだから映画を観たり、音楽を聴いたりするのではなく、「これが流行っている!」と言われて、観たり聴いたりしているだけです。彼らは何一つ、自分で理解することができず、教えられた通りの歪んだ世界観を持ち、自分達はユートピアに住む優れた民族だと思っています。
自分の都合の良い様に物事を曲解し表現する日本人は、偽をもって貴しとなす、世界一のほら吹き大国となってしまいました。しかし日本人は相変わらず事実から目をそらし、真実を語ろうとする人々に対して「訳わからねえ」「知るかよ」「俺たちさえ上手くやればいいんだよ」と言いながら世界をあざ笑い続けているのです。