kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールです。

より良い社会を目指すシステムを構築できない日本人

日本人には進歩という考えが無いように見えます。いかに他を出し抜いて国や企業や自分が儲けるかという悪知恵はあっても、より良い生活を求めて議論したり仕組みを作り上げようとする気はないようです。例えば国の根幹である法について見れば日本人の考えがよく分かります。

 

法という命令体系に従い行政機関が機能するわけですが、これらの法は公開されており、もし誤った動きをしたならば権限を持った管理者、すなわち司法がそれを正します。こうした誰かの恣意を出来るだけ排除したシステムによって、比較的公平と思われる法の支配が上手くいくわけで、その為には司法は出来るだけ独立した機関でなければなりません。

戦前は行政機関である司法省("Ministry of Justice")の中で判事は検事よりも下の存在でした。現在、形式上は三権分立でも判検交流があり最高裁判所事務総局の強い人事権のもと、起訴された容疑者の99%が有罪になるという異常な事態がまかり通っていますが、日本人の多くは気にもしていないようです。

 

そもそも法は秩序と正義を保つ為にあり、正義("rights")と権利(”rights”)という言葉は同源なのですが、日本人に正義とは何かを聞いてみると良いでしょう。

「人を殺した奴は死刑にすべきだ」、「身内が交通事故で死んだら加害者を絶対に許さない」、「集団の決まりを守って迷惑をかけない」など、まるで「目には目を歯には歯を」の同害報復("talio")や部族の禁忌("taboo")のような前近代的な考え方をしています。法が国を支配するという言葉を聞いたら、教養の無い一部の日本人は「どこかの偉い人が国を動かした方がはるかに良いだろう」とさえ感じるかもしれません。

 

「自由」「平等」「独立」「私的所有権」「契約の自由」「推定無罪」「"right of requesting an account "」「抵抗権」等の言葉は日本人には馴染みません。これらは冷笑すべき絵空事です。

弱者が、強者の恣意に左右される事のないように各個人を「主体」として認めその「権利」を保障し、その代わり行為の結果には責任を持たせるという考えはナンセンスなのです。

「弱い奴は強い人の言う事を黙って聞けばいんだよ」「弱者が犠牲になるのは仕方がないよ」というのが日本人の考え方です。

彼らにとって「基本的人権」などという言葉は文明国の仲間に入れてもらう為の念仏のようなものです。ただそれらしく外に向かって唱えていればいいのです。強者が法に頼って力を振るい弱者を叩き潰すのが日本の「正義」であり「法治」なのです。

 

人間は歴史の中で試行錯誤しながら、今の仕組みを作り上げました。不正は必ず発生しますが皆が妥当と考える基準を作り上げそれに従って秩序を維持しています。文明国においては、人は間違いを犯すけれども、より良くしようという信念と知恵があり、それを共有しているという確信があります。

ところがそれに逆行しているのが日本人であり、結局のところ「世の中がどうなったって知ったことか、上手くやって俺達が繁盛すればいいんだ」というのが彼らの本音なのです。