kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

「浜辺の歌」に見る日本人の音感

日本人は音痴とよく言われます。具体的な話を進めるのに「浜辺の歌」を取り挙げてみます。成田為三によって作られた唱歌ですが、これを歌う際に音程を外し易いポイントがいくつかあります。

(1)音程が段々と上がる部分

「あしーたあ、はーまあべー」の「」(レ→で2度の音程)

「あしーたあ、はーまあべー」の「」(ド→で2度の音程)

「さあまーああよーええばー」の「」(ド→で2度の音程)

(2)4度の音程

「雲のさまよ」の「」(ファ→で4度の音程)

「雲のさまよ」の「」(レ→で4度の音程)

(3)主和音から属和音に切り替わるところ

「あした浜辺をさまよえば」の「」(ド→で2度の音程)

「雲のさまよ」の「」(レ→で4度の音程)

 

貴族が楽しんだ外来音楽は別として、日本人の庶民の歌は基本的に素朴なドレミソラのヨナ抜き(四七抜き)音階だったようです。

日本の伝統的な曲のひとつ、「さくらさくら」はラシドミファから成る短音階の曲と解釈できますが、この音階をドから始めるとドレミ♭ソラ♭になります。日本人が長音階を歌う場合、ミとラがフラット気味になる傾向がもともとあるのかもしれません。

また、浜辺の歌のようにスラーで音が繋がっている箇所を歌うと、日本人の音程は低めになり勝ちです。というのも日本人は音程を上げていく際に、音を探すように下からすり上がるように歌い、結果として♭気味の音になってしまう傾向があり、本曲のようなケースではそれが露わになりやすいのです。これが(1)の理由です。

(2)の理由ですが、主音に対して4度の音程(長音階でファ、短音階でレ)というのが日本においては馴染みがありませんでした(相対的にはミとラ、ソとドがあります)。実際、日本人には主音と4度の音で構成される和音が良く聞き取れていないのではないかと思うことがしばしばあります。ついでに言うと2度の音程すら怪しいのです。1度と3度の和音は全く同じ音が鳴っていると認識していたようです。(音楽教師 Elizabeth Torreyの記録)

次に(3)です。日本人には主音を絶対的なものとして、それを基に音を上に積み上げるという考えがありませんでした。そもそも主音で終わらない曲さえあります。日本の素朴な民謡は2度や5度の単音で終わるように見えることがあります。3度や6度の和音ならともかく2度や5度で終わるのです。彼らは曲を主音で終える必然性すら感じていなかったのです。ですから主音をベースとしてから組み上げる和音という概念も発達しようがありませんでした。

主要三和音の内、下属和音(subdominant)は未だしも、属和音(dominant)には違和感があったようです。属七和音(dominant seventh)は自然に主和音へと導かれるので分かり易いのですが、単に属和音(dominant)へと進行するのは日本人にとって馴染みがないものだったのです。

 

日本人がなかなか西洋音楽をものにできなかった理由をまとめるとこうなります。

(1)日本人には、主音という考えがなかった

(2)4度の音程感覚がなかった

(3)主音を基にハーモニー(和声)を組み立てることができていなかった

この「浜辺の歌」が人気を得たのは、皮肉にも、日本人特有の下からすり上がって唸るように歌う部分が気に入られたのかもしれません。主音に対して4度音程のファとシが少なく、比較的歌い易い所に置かれているというのもあるかと思います。

これら日本人の音程感覚も味であると言ってしまえばそれまでなのですが、体系的な音楽をついぞ作れなかった日本人が西洋音楽の真似事をし音楽産業を営みながらも、今に至るまで滅茶苦茶な音程の音楽を作り出してきたのは少々滑稽です。

最近は機械的にヴォーカルの音程を正しくすることができるようになりましたが、西洋以外の民族と比べても日本人には根本的に音楽センスが欠けているとしか思えないところがどうしてもあるのです。