kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

日本人の笑いが意味するもの

日本人は奇妙な笑いを浮かべることで知られています。この笑いには、おおよそ、次のような意味があるかと思われます。

(1)自分は敵ではなくあなたに同意しているという意志を伝達するもの

(2)自分の感情を隠して相手を利用しようという意図によるもの

(3)どう対応していいか分からない時に無意識に浮かべる癖のようなもの

(4)相手への嘲笑

 

アジア太平洋広告祭で最優秀賞を受賞した「The Dolls with Attitude」という日本人監督による短編映画があります。上っ面のほめ言葉だけで会話を交わし、その実、相手のことなど何一つ考えておらず、気にもしてもいない日本人の人間関係が描かれています。どんなに不自然で奇妙に見える作り笑いであっても、日本では相手に恭順の意を示せればそれで良いのです。

 

本音を言えるのはトップに位置する一部の人間にのみに許されることであって、それ以外は何も考えずに愛想笑いを浮かべ相手に同意し服従するだけの人生です。いくらでも代わりがいるので、そのうちに深刻な自己喪失に陥るか、無の境地に至るか、底知れぬ悪意に捉われるか、あるいは狂い出します。

 

さて日本のアニメ等を見ると、会話の途中で妙な間がある時があります。声優が 「あっ…」という間投詞をあてて、登場人物は呆けた様に立ち尽くすのです。これは何かに気づかされたとき、判断に迷う時等によく見られるもので、実際にはこういった場面で日本人は沈黙するか薄笑いを浮かべています。

 

日本人は相手との関係によって委縮したり尊大な態度に出たりしますが、尊大な態度のひとつの表現として嘲笑があります。最初は上のような自分のぎこちない感情を誤魔化す周囲への愛想笑いのようなものだったのですが、それが次第に自分を守り相手より優位に立つための嘲笑へと微妙に変わっていきます。日本人に時々見られるシャイな優しさは、彼らの性格の弱さ、自我が確立されていないことから来るものですが、彼らも時が経つにつれて典型的な日本人となっていくのです。

 

日本で独特の定義付けがされている集団ストーカーという言葉があります。確かにそのような事例が在ることを否定はしませんが、多くは被害妄想、関係妄想、誇大妄想の産物であるように見受けられます。しかし確かに彼らは陰湿な集団暴行の被害者なのです。持ち物を隠したり壊したり、突然大きな音を出して委縮させたりというのは虐めでよく使われる方法です。「皆が隠れて私に意地悪をしています」「傍を通るたびに舌打をされます」「あの人が私を笑っています」等と被害を訴えても相手にされないか頭がおかしいと思われるだけです。

しかし日本人は不用意に他人を嘲笑いすぎで、その事によって身に災いを招くことがあります。すなわち、そういう巧みな虐めが蔓延しているので、日本人は被害妄想から攻撃へと一気に変化する傾向があるのです。抑圧され鬱屈した不満を常に抱えているので、ちょっとした事で特定の誰かを逆恨みし執拗な攻撃を開始するのです。

 

弱い個人は理不尽に標的となりスケープゴートにされやすい傾向があります。日本人は勝てそうかどうかで相手への態度を決めます。行けるとなれば干渉や攻撃を始めます。理由は要りません。弱いから叩くだけです。だから日本人は大きな集団とつるみたがるのです。マフィアと同じで、絆や繋がりや皆で寄り添うことが大切であり、それがあれば守られるし、無ければ何をされても文句は言えないのです。

 

「畏れ慄いて」という映画があります。総合商社に就職したベルギー人女性が虐めに遭い僅か1年で退職まで追い込まれた実話を映画化したものです。積極的にビジネスに役立とうという志は直ぐに潰され創意工夫は叱責の対象となり機械的な単純作業を押し付けられ、終にはトイレ係を申し渡されます。弱い相手が萎縮し恐れおののく事を常に求める歪んだ日本人の心理が描かれています。

 

不正をしている人間は他人の不正が気になるものであり、暴力的な犯罪の被害者はその後同じような犯罪を犯してしまう傾向があることが知られています。彼らが暴行を働くとき、それは彼らのやましさを誤魔化す為でもあり、受けてきた虐待の幼稚な真似やそれに対する復讐でもあるのです。

 

嘲笑は日本人を操るのにも使われます。「そんな事をしたら笑われますよ」と多くの日本人は言われて育ちます。公の場で笑われると教養ある日本人でも狂人のような行動に出ることがあります。「そんなことも知らないの?」「常識だよね?」と言われると彼らは必死になって否定します。周りの評価が全てなので、事程左様に人に笑われるというのは日本人にとって大きな心理的打撃なのです。

 

動物的な馴れ合いは在っても、日本人には真の友も仲間も存在しません。得られもしない愛や友情を求めて、今日も日本人は意味不明な笑顔を浮かべています。太平洋戦争時に捕虜になった日本人の多くは直ぐに何でも喋るようになり進んで連合国の為に働いたという記録が残っています。彼らは上の命令で動く機械のようなもので、誠実さや友情、愛、思想では動いていないのです。

 

日本人というのは本質的に冷たい人々です。個々の日本人はいつ豹変し敵意をむき出しにしてくるかもしれない周りの悪意におびえながら生きています。ぶち切れそうになるのを必死に我慢して生きています。しかし彼らは何故そんなに何時も自身が不愉快なのかに気づいておらず、またそれを知る事を恐れています。平和な楽園という幻想を打ち破るものは憎悪と攻撃の対象となります。彼らの敵意はその時々、一定の人物に向けられ、その攻撃によって彼らは一時溜飲を下げるのです。日本人は大変不幸なことに周りの悪意にも自分の悪意にも気づかずに、その惨めな一生を終えるのです。

www.youtube.com「畏れ慄いて」("Stupeur et Tremblements")予告編

(「The Dolls with Attitude」についてはYOUTUBE等で検索してみてください)