日本人は奇妙なうなずきをすることがあります。例えばニュース番組で若者が未来の希望を語る映像が出た後、アナウンサー達が微笑みを浮かべながら一斉に頷くのです。あるいは映画で主人公が恋人を思い浮かべ決意の表情で頷くこともあります。日本人ならば意味は何となく分かるはずです。
これは相手の感情、意向や存在を是認したという仕草なのです。ラジオなどを聴いていても、語り手の一方が何かを喋ると、必ずもう一方が同意の言葉を述べます。そんなに意見や感情が一致するはずは無いのですが、延々と同意し合って建設的な議論は決して始まりません。
日本の会話においてはまず「あなたを是認しました、仲間として認めました」という合図が何より大切なのです。その後は「わたしはあなたと同じことを感じています」という関係維持の為の、言葉や仕草がグループの成員である限り繰り返されることになります。
そもそも日本語のような主語や動詞の地位が低い言語においては、自分の論理や考えを伝えることは主たる目的ではないのです。極端な話、ただ単語を並べるだけで文は完結してしまうのです。
例えば目の前の風景を様々な単語を並べて描写し「いとをかし」等と言う、つまりある環境において、それに当てはまる言葉を探し出して表明する、そうすると相手は「彼は確かに自分と同じことを感じている」あるいは「この環境においてはこういう言葉を充てるのだな」と即座に理解し同意を示すのです。
俳句というのはまさに日本語表現のひとつの極みと言えるでしょう。
発せられた言葉はその場にいる全員に同意されることを前提としていますから、主語などどうでも良いのです。
また言葉を当て嵌めて皆で共感し安心することが目的なので、それで自分がどうこうするという意志を示す必要が無く動詞もそれほど重要でないのです。
このように言語が未発達なのに比べて、日本では単語の種類だけはやたらと多いのです。新語や造語が日々現れます。あるグループの内輪では独特の隠語が使われます。その隠語の意味を知らなければその成員となることはできません。
言葉によって共感を強要するのとは逆に、容易には推察できない微妙な隠語を用いることによって、相手が仲間か敵かを判別し隔てることができるのです。
ですから流暢に日本語を操る外人は嫌われます。たどたどしく語り、時々滑稽な間違いを犯して笑われる道化ぐらいが日本人にとってちょうど良い、束の間の客人なのです。
仲間かどうかを区別する方法だけでなく、上下関係を厳格に維持するやり方も、言葉の使い方を通して観察する事ができます。下の人間は上の言う事はどんな支離滅裂なものでも同意しなければいけないし、上の者は是認されることを当然と考えます。下の人間は言葉を返すことも無く、ただひたすら「空気を読む」「察する」ことを日々重要な役目と認識するようになります。
日本人の仕事ぶりを眺めると、下請けの技術者でも無い限り、彼らは眼前の仕事に集中などしていません。机に座っても360度周囲に気をつけています。偉い人が近くにいないか、他の人が今何をやっているか、周囲でどのような会話が行われているか、どのタイミングで会話に参加すべきか、あるいはそ知らぬ顔をして黙っているべきか、はたまた、そろそろ帰っても良い雰囲気か、ダラダラ仕事をしながら、そういったことに抜け目無く注意を配っているのです。
こうして見ると日本語というのがいかに日本人の習性を反映した言葉なのかということが良く分かります。
ただ当たり障りのない言葉をサラダのように混ぜ合わせて共感を得ることが目的のツールであり、意味や論理、考え方、自分の意思などはどうでも良いのです。日本ではロゴスという概念は存在したことがないのです。
ですから日本の社会が滅茶苦茶で世界に大きな迷惑をかけてきたのも当然です。蟻は言葉が無くても集団で大それたことを行います。
西洋文明社会の一員のように振る舞い、自分でもそう思っているのですが、彼らの頭は未開の人間や言葉を持たない獣に近く文明人などでは決してないのです。