日本人というのは正しく現実を直視できない人々です。例えばお上の御威光があるものには無条件でひれ伏すのですが、そうでなければヤクザであろうが、強い外国であろうが向こう見ずにも歯向かうような所があります。
危険な人、おかしな人には関わらないのが普通ですが、日本では信号を守らない、並び方を守らない等のくだらない事で厳しく赤の他人を叱責する人間がいます。「味方に正しき道理あり」であれば「敵は幾万ありとても」勝てる、それが正義だ、国や警察や先生がなんとかしてくれると思っているのです。正常性バイアスも異常に強く、危機的状況にあっても「たいしたことはない」と平静を装います。その愚鈍ぶりは驚くばかりです。
これは個々の日本人が現実を自分の目で正しく見て、適切な判断を下せないことから来ています。それも当前です。日本人は自分の判断を放棄するように小さい頃から訓練されているからです。御公儀御役目、お上御公認のものならば常に正しいが、そうでないものは悪であり、皆で攻撃してもよい、怖くはないと洗脳されているのです。
現実を正しく理解して適切な言葉で表現できない日本人は、あたりさわりの無い表現か、上におもねった表現、ひいては日本すごいという言い回しになってしまい勝ちです。報道においてもメダル3つ程度で「メダルラッシュ」とか、表現がことごとく不適切なのです。観測上のデータがあっても改ざんして「風評」にしてしまうとか、日本人は上から下まで現実認識をねじ曲げるのが大好きです。
翻訳も含めて日本で出版される小説には、内容は様々ですが「解説」が付いていたりします。他人に教えてもらわないと、曖昧な小説はどう判断して良いのか分からないのでしょうか。自分で理解し判断すべきところを、「教えて偉い人」とばかりに他人に頼っています。日本人は自分の意見を言えないだけでなく読解力も異様に低く、多くの人々は先生に教えてもらったとおりに国語の教科書の内容をひとつの解釈で決め付けてしまいます。国語で書かれた文章でさえこの有様ですから、情報鎖国状態である日本における人々のメディアリテラシーは大変未熟で、彼らが世の中の状況を正しく捉えることは至難の業です。
世の中には多様な考えが存在するということも分からず、重箱の隅をつつくような議論で勝った、負けたなどと言っています。単純な善悪、正誤などの二元論で片がつくというのはまるで子供のような考えです。
実際日本人は上が教えてあげないと何一つ決められない子供であり、そのため報道もまるで日本人が子供をあやすかのような、現実とは異なる御伽噺のようになっています。役人や学者、企業幹部も「日本人は農耕民族だから協調性が大事」とか「日本の四季は美しい」、「日本人は謙虚で勤勉」、「日本人は手先が器用」、「日本人は繊細」、補助金目当てなのに「イルカは生活を脅かす」、「クジラは貴重なタンパク源」等と述べて教育ある海外の人に失笑されていました。
おかしな奇習を美談にしてしまうというのも日本ではよくあることです。地方の高校で職員室前の吹きさらしの寒い渡り廊下で勉強することが、夢を追う若い人達の美談として紹介されていました。しまいには白米と梅干という貧しい食事で頑張り、カミカゼ・アタックを繰り返すことが美談になってしまいます。
この国ではお上が認めていれば、水戸黄門の印籠を見たように庶民は平身低頭しますが、その一方で、御公認であれば、どんな悪辣で非道なことをしても開き直ることができ、実際に罪を逃れることができます。お上のお墨付きであればこの国の人間はどんなことだってやってのけます。自分たちは正しいのだという確信を持っているから非常にたちが悪いのです。日本人は傲慢で残虐非道という非難はまとを得ています。
教育を受けた者の理解不能な傲慢さ、異常な振る舞いも目立ちます。日本人がやってくる。黙って何も言わないから、この男は白痴なのかと皆が思い始めた頃、突然、早口でまくしたてる。何を言っているか分からないがところどころ学校の名前が出てきたり独断的な口調で周りを断罪するような言葉が含まれており、どうやら自分は優れた学校を出ており周りは適切な敬意を払って黙って言う事をきくべきであると言いたいらしいのです。
日本人は何を考えているか分からない上に傲慢で協調性がなく使えないのです。プライドをへし折り、お前は奴隷である、犬であるという扱いをすれば、尻尾を振って協力するようになりますが、それまでが大変なのです。戦後GHQがやってきてようやくこの野蛮な日本人を飼いならすことができました。しかし白人には負けたがアジアの盟主は日本であるという妄想を彼らはいまだに抱いています。日本人は客観的に現実を見て自分達だけで己を改善し真の意味で成長することが非常に困難な人達なのです。