kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールです。

70億の人間の意識も、ひとつの意識が見ている夢に過ぎない、という考え方で世界を見る

地球上で次々と新しい生命が生まれては、はかなく消えていくという事が繰り返されています。この命の軽さ、無駄とも言える命の払い出しには何か理由があるのでしょうか。人間の命には何らかの価値があると信じる人ならば一度は考える問題です。

 

ひとつの考え方ですが、無数の生命、魂、意識があるように見えても、実際にはひとつの意識が見ている夢のようなものに過ぎないのかもしれません。例えば、漫画家や小説家は物語を創作するにあたって様々な登場人物を作り上げます。Aというキャラクターに没頭したかと思えば、次にBというキャラクターに移っていきます。時に書き手は、まるで登場人物が勝手に生きて動いているように感じることがあります。この場合、書き手は常に自分が書き手であり、創作世界の作り手、いわば神であることを意識していますが、こういった作り手としての意識が無い場合も考えることができます。

 

天文学者であるフレッド・ホイルが書いたSF小説に「10月1日では遅すぎる」というものがあります。ここで意識と時間について、ひとつの見方が披露されています。Aという人物のファイル、Bという人物のファイルが予め用意されていて、意識というのはそれぞれのファイルにスポットライトが当たったときに自覚されるものでしかないというのです。

A、B、C・・・、A、B、C・・・とマルチタスクにおけるタイムスライスのように次々と意識が切り替わっていき、A、B、Cそれぞれは、割り当てられている間、自分の意識がずっと継続しており独立しているものだという確固たる自信を持っていますが、それはひとつの意識(CPU)が見ている幻想に過ぎないのです。

 

またAという人物において、若年期のある頃、壮年期のある頃、老年期のある頃、そしてさらに平行したまた別の世界、といったファイルが用意されていますが、必ずしもそれらのファイルを順に見ているわけでもないのです。まったくランダムに、老年期を過ごしたかと思えば、次は若年期の世界を見ているのかもしれないのです。あるいは、老年期だけ数万回も繰り返し見ているかもしれません。それでも当人はそのたびごとに、その世界において新鮮な経験をしているのです。

ここでは過去から未来に一方向に流れる時間というもの自体が否定されています。処理が割り当てられている瞬間、そのファイルの世界においては過去があり、未来の展望があり、時間が一方向に進んでいるようにしか見えないのですが、それは予めそこに書かれていた物語にしか過ぎないのです。意識の範囲は、常にそのファイル内に限られているからです。

 

時に死の局面のファイルを開いてしまうかもしれませんが、次にはまた壮年期のファイルを開いて、人生を楽しんでいるかもしれません。つまり、世界がこういった仕組みであるならば、死さえも重要な問題ではなくなってしまいます。このシステムでは世界を見守る統括者、絶対的存在というものがありません。

 

もしかすると遠い昔に、上位の生命体が生きるのに飽いて、様々な夢を永遠に見続けていたいと考え、このシステムを作り上げたあと長い眠りについたのかもしれません。それであれば、この世界が滅茶苦茶で何でもありなのも、まったく救いがないというのも、有り得ることです。

確かに夢というのは、目的があり、筋が通って、一方向に進んでいるよりは、混乱し滅茶苦茶であったほうが面白いものですから(笑)。