人間は一人きりになりたいと思えば、たいていの人は、そうすることができます。部屋にこもったり、あるいは、どこか辺鄙なところに出かけて孤独を楽しむことができます。人間はこれを当たり前と考えますが、人間より上位に位置する高次の存在は、そのような事はできないのです。全知全能だからです。仲間同士、常にお互いの存在を知り得るし、何を行っているのかも筒抜けの状態なのです。仲間から身を隠したり、隠れて何かをするということはできません。
ところが物理世界に住む人間は、一人になることが可能な存在として設計されました。2人の人がいて、お互いの空間的距離が離れれば離れるほど、互いの姿や声は小さくなっていき、ついには存在を把握できなくなります。物影に隠れたり、壁を作れば、自分の姿を隠したり、声を遮断したりすることができます。
このようになっているからこそ、人間は安心してトイレで排泄をしたり、時に共同体から離れ旅に出て、気分を一新したりすることができるのです。全て理由があるのです(しかし近代の通信技術やセンサーの発達によって、人はそのプライバシーを保てなくなりつつあります。人は全知全能を求めて、自ら与えられた特権を放棄しているのです)。
人は孤独を求めると同時に、他人を求める存在でもあります。この2つの極の間でちょうどよい中庸の場所を探す、それが人に求められている課題なのです。光と影があり、善と悪がある。清潔と穢れがあり、愛と憎悪がある。成長と崩壊があり、規則どおりに動くものもあれば全く予測がつかないものがある。すべて意図的に作られたのです。
神々は完璧な世界、完璧な自分達に嫌気がさしたのかもしれません。高次の存在は、光や善だけで生きられますが、人間は光や善だけでは生きていくことができないように作られました。人は初めから矛盾する2つの極の間で悩み、さまようように、そして自分が下した決断によって裁かれるように運命を定められているのです。いや、あるいは、もてあそばれているのかもしれません(笑)