愛とは感情ではなく理性の働きによるもの

「愛」という言葉の意味を誤解している人が多くいます。普通に「愛」といっても人によってその意味はさまざまです。

 

(1)性愛 : おもに男女間で見られる肉欲を伴う激しい感情と欲望

(2)普通の愛 : 子供や友人に対するような、肉欲を伴わないが、自身の「好ましい」という気持ちに裏打ちされた感情

(3)抽象的な愛 : 「人類愛」などの概念的な愛。個々の人々ではなく概念化された集団を好ましいと思う気持ち

 

しかし聖書に載っている愛とは感情や気持ちによるものではなく、あくまで理性の結果によるものです。

「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(マタイ5:44)

「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。」(マタイ5:46)

 

自分が好きな人を愛するだけでなく、自分の敵でさえも愛さなければならないのです。自分の親兄弟や子供を殺し数々の非道な仕打ちをしてきた悪党も愛さなければなりません。顔が醜くただれたゾンビのような風貌で悪臭を放ち下品で乱暴な言動を繰り返すような人も愛さなければなりません。

 

これは「好き」という感情にもとづいた愛では不可能なことです。そのような敵や隣人を好きになったり、好ましく思ったりすることは無いからです。

 

ですから聖書に書かれている愛は、感情ではなく、あくまで理性にもとづいたものであることが分かります。下に引用した理由から全ての人を分け隔てなく愛することが理想なのです。それは上で述べたような抽象的な愛ではありません。あくまで個々の人々を平等に愛するのです。

 

「こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」(マタイ5:45)

 

自分と相性が合わないと感じた人はスルーすべきとか、関係を断つべきだと簡単に述べている人が多くいますが、それではだめなのです。例えSNS上の関係であってもです。

 

あくまで論理的に考え、聖書の記述に納得したうえで、敵や醜い人々も含めて平等に、他人にしてほしいと自分が思うことをなす、そのような理性に裏打ちされた考えや行為、それが「愛」なのです。

 

しかし、これは人間にとって非常に難しいことなので、失敗するたび、イエスに許しを得る必要があるわけです。