神を信じようとする際、最初に躓くのが、これかもしれません。なぜ祈りは聞かれないのか。
それは、イエスが磔になって現在に至るまで死んだ状態、無意識の状態であるからと考えられます。黙示録には「わたしは、すぐに来る」と書かれており、また磔になった際、イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とも言いました。しかしイエスが死んで2千年が経ちましたが、世の中は悪くなる一方です。そしてイエスが居なければ、我々は神と通信することができないのです。
では祈りは無駄なのでしょうか。そうではありません。それは自分の立場を鮮明にする意味があります。イエスの立場をとるのか、あるいはルシファーの側につくのかという選択です。その立場表明の記録となります。
また祈ることによってこの世を支配している神々が、その願いを叶えてくれるかもしれません。イエスの語った不義なる裁判官の例えのようにです。ルシファーといえども、神の是認を受けたうえで、この世を支配しているのです。
それではこの世の神々に直接祈ったらいいのではないかと言う人がいるかもしれません。そうしている人は大勢います。しかしそんな事をしたらサタンの側につくことになってしまいます。ここは重要です。
ルシファーというのは、言ってみれば意地悪な直属上司です。VPN回線があるわけではないので(笑)、祈りをすればその内容はルシファーにつつぬけです。上司を飛び越えて訴える訳ですから覚悟が必要です。祈りの内容は工夫することが必要です。しかし日依ってはいけません。ここが難しいところなのです。
彼はまた,いつも祈っていなければならず,あきらめてはならないことを,彼らにたとえで話して言った,「ある町に,神を恐れず,人をも敬わない一人の裁判官がいた。その町には一人のやもめがおり,何度も彼のもとに来ては,『わたしを訴える者からわたしを弁護してください!』と言っていた。彼は,しばらくの間はそうしようとはしなかったが,後になって自分に言った,『わたしは神を恐れず,人をも敬わないが,それでもこのやもめがわたしを煩わすので,彼女を弁護してやろう。そうしないと,彼女は絶え間なくやって来て,わたしを疲れ果てさせるだろう』」。(ルカ18:1-5)