教育とは何のためにするものでしょうか。江戸時代の庶民の寺小屋教育は、いわば余暇の趣味のようなものでした。明治維新以降の義務教育制度はそれとはまったく違う目的で施行されたものです。その目的とはもちろん、「富国強兵」です。
識字率を高め、最低限の教育をほどこすことで、器具を使って工場で働き、武器を操作して戦場で戦う人たちを量産したのです。日露戦争での日本の勝利に西洋は驚き、彼らも庶民の義務教育の質向上に力を入れるようになったのです。
しかし現在はどうでしょう。文科省は掛け声ばかりで、ちっとも貧乏人の教育には熱心ではありません。彼らはもう日本国を富ましたり、兵隊を強くするという目的を持っていないのです。
では国民は何のために存在するかというと搾取の対象です。なけなしのカネを巻き上げ、あとは病気治療や戦争で命をカネに変えるのです。一言でいえば「棄民政策」です。彼らの言葉を聞くのではなく、彼らの行動をしっかり見てください、そうすれば自ずと答えが見えてきます。
大人しく洗脳され、国のやり方に素直に迎合し搾取されていく人々、そうジョージ・オーウェルの「動物農場」に出てくる羊のような存在です。頭の悪い羊達はシュプレヒコールを繰り返し覚えさせられ、その言葉を訳も分からず大勢で復唱して、独裁政権を支えるのです。何も考えず感じるままリツイートを繰り返す馬鹿国民と実によく似ています。
大衆の教育は不要となり、頭の悪い羊たちの洗脳用にスマホのような携帯電話端末を与えます。今やカルト教団であるエホバの証人でさえiPadを持つように推奨されています。朝起きてから寝るまで自らネットの洗脳情報を収集し、どんどん馬鹿になっていくのです。テレビと違い能動的行為によって洗脳出来るのがネットの良いところです。スマホも使えないないような貧乏人は存在価値が無いので、穏やかな処分対象となっています。