kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

自分の姿が見えていない日本人

「私は日本人だ。どうか撃たないでくれ」、この言葉は典型的な日本人の考えを表しています。彼らは自分たちが一体、彼の地で、どういう立場で何をやっていたのかを理解していなかったのです。ただ個人的な善意で行動していれば、憎まれたり殺されたりするはずが無いと考えていたのです。

ドイツ陸軍の軍人、ハンス・フォン・ゼークトは、人間を「勤勉で頭の良い者」、「怠け者で頭の良い者」、「怠け者で頭の悪い者」、「勤勉で頭の悪い者」に分け、「勤勉で頭の悪い者」は「銃殺にすべきだ」と述べていますが、日本人はまさに「勤勉で頭の悪い者」にあたります。

鶏の首を刎ねると、しばらく首の無いまま走り回るのですが、日本人はこの頭のない鶏です。深く考えることもなく一生懸命働く、これが世界にとって迷惑なのです。日本車が米国市場を席巻したころ、ある米国人が「我々は日本人が居なくなっても全く困らない」と述べたのですが、しかり、その通りです。所詮、モノマネの大量生産品しか作れない日本人に存在意義など無かったのです。

日本人は北朝鮮を嗤いますが、自分のみっともない姿が見えてない日本人こそ、世界で嗤われているのです。それなのに、「世界に誇る日本の食文化、科学技術、おもてなし、アニメ」だとか、「米国や中国も驚愕する日本の軍事力」とか言って得意げになっています。これこそ失笑モノです。

文化人類学者のルーズ・ベネディクトは「菊と刀」の中で、ある日本人の画家のエピソードを紹介しています。未だ日本が貧しく渡航も難しかった頃、彼は「大きくなったら米国に渡って画家になりたい」と言って米国人の宣教師夫婦に笑われ、それをずっと恨んで書物に残していたのです。ベネディクトは「彼はそれが本当に可笑しな事だったとは考えなかったのだろうか」と疑問を呈しています。つまり、「貧しい少年が米国に渡る」という誇大妄想的な途方もない考えと、果たして米国に渡る事がその少年にとって意味のある行為なのかという妥当性の検証不足、そういった事を見れば十分に笑われても仕方のない状況だったのです。

自分の姿を客観的に見て反省する事が出来ない日本人は、前頭前野に遺伝的な欠陥がある可能性があります。決して文化的、環境的要因だけでこのおかしな特性が育まれた訳では無いでしょう。

日本は既に貧乏国家へと向かっており、今や世界への影響力はほとんどありません。米国の研究所で働いたある日本人は、2015年に「もはやこの国では誰も日本に興味を持っていないという点である。おそらくここ10年くらいで、日本を取り巻く環境は激変したように見える。日本は経済力においてまだ世界第3位の大国でありながら、それに見合う存在感はまるでない」と述懐しています。日本に出来るのは今も昔も、誰にも感謝されずに金をばらまくことぐらいでしょう。

IBM ワトソンでの人工知能研究
http://ide-research.net/papers/2015_AIJ_Ide.pdf
(2016年7月7日)