イエスの言葉に「不正にまみれた富で友達をつくりなさい」というのがあります。真面目なクリスチャンはこれをどう解釈したものか悩みますが、これは そのままの意味でもあるかと思います。イエスは確かに例え話を多くしましたが、その話自体もそのままで意味が通るものです。でなければ例えになりませんか ら。イエスは決してエキセントリックで逆説的な話をしていた訳ではないのです。
この例え話ですが、あるお金持ちに仕えていた雇われマネー ジャーの横領が発覚し、オーナーからクビにすると言い渡されます。肉体労働はしたくない、乞食にもなりたくないと、この管理人は考え、ある結論に達しま す。主人から金を借りていた債務者を次々に呼び出してて、目の前で安く借用書を書き換えてあげたのです。こうして恩を売っておいてクビになった後の再就職 に望みをかけたのです。さて文書偽造と横領を重ねた訳ですが、この事を知った主人はなんと、管理人の抜け目なさを褒めたのです。これは、これほど如才無い 人間ならばこのまま雇っておいても、今までの損失以上に自分の財産を上手く運用して増やしてくれるだろうという、極めて合理的な判断が働いています。
イエスはこの話をした後にこう言います。「またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。」(ルカ16:9)
日 本の景気が右肩上がりだった頃は、営業は会社のカネを使って遊ぶと同時に、得意先の接待をして仕事をもらってきました。酒、食事、贈り物、賭け事、女を使 い、一緒に遊んで恩を売ったのです。そのおかげで彼らは長い間、仕事を回してもらうことが出来ました。今だとコンプライアンス違反ですが、不正のカネで友 を作った結果、生き延びる事ができたとも言えます。
同情してくれる友は有難いかもしれませんが、それだけでは生きていけません。例えカネで 作った友であっても、彼らは困った時に仕事をくれるのです。金が無いときはどうしましょう。だから不正のカネなのです。多少のルール違反はしてもカネを 作って縁を作り生きていく、これがイエスの与えた現世的な処世術のひとつなのです。