kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

「皇帝のものは皇帝に」 この答えが素晴らしい理由

「皇帝のものは皇帝に」というイエスの逸話は有名ですが、この答えがなぜ、論理的に凄いのかを説明しているものがあまり無いように思われたので、ここでちょっと解説をしたいと思います。

まずは聖書の文章を引用します。

そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適かなっているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」 彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。(ルカ20:20-26)

これを解説します。
イエスにさんざん言い負かされていた律法学者たち、祭司長たち、長老たちですが、今回は満を持して、ディベートの達人を送り込みました。まずは、公衆の面前で、イエスを褒め上げ、相手を気持ち良くさせた、その隙を突いての質問です。さりげなく訪ねている所が上手いです。

この質問への返答は言うまでもない事ですが、「税金を納めるべき」では、周りで見ているユダヤの民衆の反発を買ってしまいます。ローマ帝国による支配を憎んでいたからです。だが、納めるべきではないと答えると、今度はこれをローマ帝国の総督に告げて、イエスを捕える事ができます。

そしてイエスの返した有名な答えですが、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言っただけで、なぜ相手は黙ってしまったのでしょう。相手はディベートの達人です。「それでは、皇帝のもの、神のものとは具体的に何か?」と議論を続けられそうなものです。そう出来なかったのは、相手が先に、通貨は「皇帝のものです」と答えてしまったからです。

ですから、イエスや周りで見ている民衆から、「ローマに税金を払うことを認めた」と糾弾されたら、場合によっては石打にあって殺される可能性がありました。もし、「いやそうではない」と答えたなら、今度は「ローマ帝国への反逆者だ!」と呼ばれてしまいます。

イエスを絶体絶命の窮地に追い落とすはずが、今度は、自分達が窮地に追い込まれてしまったのです。鮮やかな逆転です。イエスを嵌めるはずが、逆に嵌められてしまいました。回し者は、これを一瞬にして理解したからこそ、黙り込んで立ち去ってしまったのです。

この質問は、税金を払うべきかどうかという罠を上手く潜り抜ける必要があったのに加えて、議論を長引かせないという事が必要でした。相手は議論の達人です。議論が長引けば、周りの民衆は、話の内容が理解できなくても、どうやらイエスが窮地に立っているようだ、という印象を持ちます。YES、NOで答えられないばかりか、うやむやにする事もできない、良く考えらえた策略だったのです。それゆえ、立場を逆転させたイエスの返し方は、一層、鮮やかなものとして映ります。

補足ですが、この答えには、当時の納税の方法を反映した意味も込められていました。税金を払うのは当然、ローマ通貨でなくてはいけませんが、エルサレム神殿への賽銭箱には、ローマ通貨は不浄のものとして、入れる事が出来ませんでした。ですので、神殿へと通じる道の露店には、両替商が多くあり、そこで人々はローマ通貨をユダヤの通貨に替えて、賽銭箱に入れていたのです。両替商ですから、当然、手数料を取ります。そしてこの両替商はユダヤの支配者達に利益の一部を納めています。本来ならば、神に返すべきお金の一部を、自分たちの懐に入れてしまっているのです。それに対する負い目を突いた答えでもあったのです。

最後に、この答えに込められた、イエスの真意について考えてみたいと思います。上に書いた通り、何が皇帝のもので、何が神のものかは具体的に書かれていません。ですので、いろいろな人が様々な解釈をしています。もちろん、文字通りの意味もあるとは思いますが、それとは別に、私としては、この言葉を、この世と上手く折り合っていくためには、是々非々の考えが必要であると言っているのではないかと思っています。

厳格に神の律法を守るのが理想ではあるが、劣化した人間の不完全さゆえ、またルシファー(サタン)が神として支配しているこの物理世界に住んでいるがゆえに、ほとんどの人はこれを守る事ができません。女を見ても情欲を抱かないこと、お金持ちが全財産を放棄して神に従うこと、右目が自分をつまずかせるなら、右目をえぐりだすこと、これらは中々出来る事ではありません。

イエスもそれは承知しています。だから例え話のなかに、不義なる裁判官にしつこく願うことの大切さ、不正にまみれた金で友達を作る事、こういった話も聖書に記載されているように思えます。この世と折り合って罪を犯し続ける人間ですが、それでも救われる唯一の方法として、単にイエスを信じること、イエスに頼ることの大切さが強調されているように思うのです。