kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

日本人と自殺

自殺について、仮に、<生活圏>、<決意の度合い>、<冷静さ>、<他人との関わり>という4つの軸を用いて考えてみます。

 

飛込みは、通常、生活圏内かそれに近い場所で行われるものです。その凄惨さ、公共の交通機関を麻痺させてしまうこと、場合によっては賠償金請求などで残された家族にも迷惑をかけてしまうにも関わらず、この手段を選ぶのは本人の精神状態にほとんど余裕が無い事を示しています。焦燥感を抱き「早くこの生き地獄から逃れたい」「精神的苦痛を一刻も早く確実に無くしてしまいたい」という思いに囚われているのです。ですから、場所の選定や、他人、実行後の事については、全く考えられない状態なのです。

 

これに対して自○の名所などで*のうとする場合は、未だ余裕があると思われます。生活圏の外にまで出て旅をする体力、精神の余力が多少あるという事です。行ってはみたものの、やはり*に切れなかったという場合も多いことでしょう。こういった場所に行くのは、決意に自信が無く、名所に行く事で、先に*んでいった大勢の人々に思いを馳せ、覚悟を得たいという試みでもあるのです。

 

首吊りは、生活圏の中の静かな場所で、確実に*にたいという場合に使われます。通常、自宅や職場などの見知った場所で、かつ、一人になれる場所で行う行為です。切羽詰った場合も、未だ多少余裕がある場合もあります。*に際して、他人に関与しようという考えはありません。

  

飛び降りは、生活圏の中で行われる場合には、衝動的、発作的なものです。自宅のベランダに出て、あるい屋上などで下を覗き込み、「ここから落ちれば楽になれるかもしれない」とつい思ってしまうのです。これが人通りの多い場所にあるビルや塔によじ登って飛び降りを試みる際には、「誰かに助けて欲しい、自分の苦しみを分かって欲しい」という表現である場合があります。

 

焼身自○は抗議的な意味合いが強い方法です。かなりの苦痛を伴いますが他人に与える衝撃度も大です。心に激しいものがあるが、それと同時に計画性と固い決意が感じられます。特に生活圏の外に出て、象徴的な場所で実行に移す場合、他人や社会に対する強烈なアピールとなります。

 

今の日本では、精神的な余裕が無い程に追い込まれている人が多く、さらに、確実に目的を果たそうという強い意志を持った人が増えているのかもしれません。他人との関係は減っていますが、いざ関わる場合には激烈な形をとる場合があります。

また日本人の場合、家族など、親しい(と本人が思っている)他人を巻き添えにするケースが、しばしばあります。

この理由のひとつとして、日本の社会においては、他人を巻き込む行為について、許容の度合いが大きいというのがあります。日本人に愛されている(?)忠臣蔵ですが、これは、職を失った役人が逆恨みをして、大勢の仲間を巻き込み、大義名分の下に大量○人を犯した上で切腹するという、悪質な犯罪を基にした物語です。日本では一家心中で、当人が生き残ってしまった場合でも大目に見られます。それなりのステータスがある人間が、家族や親しい仲間を巻き添えにするのは、美談とならないまでも、大いに情緒酌量の余地があると見られるのです。

  

一方で、一生懸命に生きて来た弱者が悲惨な状況へと追い詰められてしまったのは、全て自己責任の結果であるというのが、一般的な認識となっています。「他人に迷惑をかけずに、一人で*ねばいい」と言うのであれば、安んじて確実に命を絶つ事のできる、安楽死のシステムを整備するのが最善という事になってしまうのでは無いでしょうか?

自分の心に潜む悪を認識できない日本人

年老いた男性とその娘らしき人達が会話をしていました。
娘:「最近は外国人の働き手も増えてきて・・・」
父:「気をつけるんだぞ」
娘:「え?」
父:「分かるだろ(---奴らにレイプされるんだよ!---)」
娘:「どういう意味ィ?」
父:「あいつら外国人や貧乏人は、平気で人を殺すような連中なんだよ」

 

人はとかく自分のレベルでものを考えたり、無意識の願望を誰かに投影してしまったりするものです。多くの日本人は自分が仲間と認めた者以外は、人間とは認識できず、平気でモノ扱いをしてしまいます。

日本の人々は、外国人が出ている映画やドラマを観ていても、何か非現実的なもののように感じ、彼らを自分達と同じ人間とは認識できません。似たようなパクリ映画を日本が作り、その中で日本人が出てきて日本語を喋っていると、ようやく安心して観ることが出来ます。そうかと思うと彼らは、在り得ない造形のアニメやキャラクターに同情したり愛情を寄せたりします。彼らの認知は自分達に都合が良いように歪んでいます。


であるからこそ、日本人は平気で非人道的なことが出来るのです。狭い共同体の中だけでものを考え、そこに居る仲間だけが「人間」なのです。しかし、例え自分の息子や娘であっても、一旦、「仲間ではない」と認識すれば、「勘当だ!」「お前は俺の子ではない」等と叫んだりして、軽々しく絶縁を口にしたりもするのです。

 

日本人は外の世界に対する認知が歪んでいるだけでなく、自分のなかにある非人間性をも認識できません。人はどうしても心の中で、悪意や憎しみが生まれるのを避けることは出来ないものです。

しかし日本人は、周りの雰囲気に動かされて無意識に犯した罪は許されるべきだと考えています。はっきりとした考えで計画的に悪事を成すことだけが犯罪で、衝動的に強姦したり、浅はかな思いで陰口を叩いたり、人を罠に嵌めたりしても、それは悪くは無いと思っているのです。はなはだしくは、善意による行為だとさえ感じているのです。ですから他人からそういった行為を批判されると、当然のごとく激昂します。

 

「私は善良で礼儀正しい日本人だ」「~さんはいい人だ」と思えば、全てが正当化されるのです。表面だけいい人ぶっていれば、善人という事になるのです。

狡猾にも、多くの日本人はそう思われるよう、常に心がけて居ます。日本に邪悪が蔓延している理由のひとつです。法に触れなければ、周りに糾弾されなければ、何をやっても構わないのです。

自分が気に入らないと思う者に対しては、試験勉強で苦手科目を克服するかのような熱心さと執拗さでこれを排除するように努めます。他人を陥れて不幸にすることが、相対的に自分の幸福を増進することだと考えているのです。

 

日本のシステムも、善悪を正しく裁くことができません。役人や元役人であれば報道は控えめになり罪も軽減されます。日本において「役人」は完全な存在であり、間違いを犯すはずが無いのです。

一方で、一般市民が交通事故を犯せば何を言っても、「あんたねえ、カーブでタイヤがいきなりスリップしたとか言ってるけれど、事故を起こしたのはあんただけなんだよ。スピードの出しすぎか、ハンドル操作を誤ったんでしょ!」と警察に怒られてしまいます。

行政は常に正しく、お上が用意したインフラは的確に整備されていますが、市民は常に間違いを犯す存在でなければなりません。全ての責任は個人に還元されます。ローカルルールに従って道路交通法を踏みにじる人々が報道で紹介され、憎むべき対象として糾弾されています。この国では、当局が認定した、もっともらしい悪だけが裁かれるのです。


個人のレベルで認知がはなはだしく歪み、彼らによって作られたシステムも歪んでいます。しかし彼らがそれに気づく事はありません。自分の考えにバイアスがある事を認識することは難しく、それを冷静に認めることは、さらに難しいのです。自分だけでなく周りも同じような人間であれば、なおさらです。目を開かせる人々が現われない限り、この国は精神的な盲目状態からいつまでたっても抜け出せないのです。

ストレスにさらされている日本人には何が起こっているのか

日本社会というのは絶え間ないストレスにさらされる場です。この社会で暮らす日本人の心では何が起こっているのでしょうか。

 

子供の頃からイジメを受けて育った実験用ハムスターは大人になっても周囲に従順である一方で、自分より弱いものに対しては攻撃的であることが知られています。実に日本人とよく似ています。
また、周りにいつも従属する事を強いられる社会的階層の低いラットは、睡眠時間が短くなり、食欲も無くなり不活発となって、ついには死んでしまいます。


ストレス反応は大脳皮質や扁桃体、交感神経、内分泌システムをも含めた複雑なメカニズムを持っています。神経伝達物質として働く、セロトニンノルアドレナリンドーパミンなどの、いわゆるモノアミンは、脅威にさらされた際の反応傾向に、何らかの方向付けをしている可能性があります。


セロトニンノルアドレナリンドーパミンの量を調整する働きがあります。「日本人はセロトニントランスポーターが少ないから不安になりやすくストレスに弱い」という話を聞いた事があるかもしれません。そして素直に「うんうん」と納得してしまった人も居るかもしれません。しかしこれは「セロトニンが少ないから不安になりやすい」という意味では決して無いのです。セロトニントランスポーターというのはセロトニンを回収する運び屋で、これが少ないということは逆にシナプスセロトニンが多いとも解釈できるのです。セロトニンは気分の安定に役立つと言われている一方で、攻撃性を高める場合があることも分かってきています。だからセロトニンを無闇に増やせば良いというものでも無いのです。

日本でよく使われるスルピリドという薬があります。スルピリドは少量ではドーパミンを増やしたかのように作用しますが、量を多くしていくと逆にドーパミンを抑えるような働きをします。その為、うつ病にも統合失調症にも使われます。また消化器系では、ドーパミンを抑えアセチルコリンを相対的に増やして消化を促進するので、胃薬という側面も持っています。
適度なドーパミンは、脳において行動に対する報酬として働きそれを強化するというだけでなく、前頭葉では余計な考えや感情を抑えることにより、本当に考えるべき重要な事柄に自分が集中できるように助けてくれる働きがあります。ドーパミンノルアドレナリンの前駆体でもあります。

 

内分泌システムにおいては、ストレスを受けると視床下部、下垂体を経由して、副腎皮質ホルモンのひとつであるコルチゾールが分泌されます。うつ病患者は慢性的にコルチゾールの量が高くなります。コルチゾールは脅威に対して体を身構えさせますが、血糖値が上がり免疫力は低下します。扁桃体の活動が活発になる一方で、前頭葉の活動は抑えられます。高いコルチゾールが継続すると、海馬の萎縮なども引き起こして心身を蝕んでいくのです。

 

日本人はIQに関係なく、思考や感情のバランスが崩れている人が多いような気がします。ひょっとすると日本人の場合、言わばスイートスポットが狭く、適度なモノアミンのバランスを保つのが難しい傾向があるのかもしれません。だから強迫性障害のように不安になったり、衝動的な言動を起こしたり、過剰反応を示したかと思うと抑うつ的になったりと、心のバランスを崩しやすいのかもしれません。ストレスの多い現代社会がますます、この傾向に拍車をかけます。

 

しかしストレスにさらされても平気な人も居るのです。それは反社会性パーソナリティ障害がある人です。彼らは恒常的にコルチゾールが低くてストレスに対して鈍いのです。さらに高IQでもあり気分も安定しているような、サイコパス、ソシオパスは現代社会での勝利者となるのです。

欲望を制御できない日本人

日本人はいったいに、欲望を制御するのが苦手のようです。

映画やドラマでよく見られるのは、不倫のシーンで、演出とはいえ、男性がいきなりガバッと女性を押し倒してしまうものです。それまで二人とも押し黙っていたのに、突如欲望に駆られたかのように行動するのです。

お互いに性行為を楽しむのではなく、まるで降りかかった災害に二人で耐えているかのようにも見えます。事が終わると、それは二人が犯した一時的な過ちであり、天災のように仕方の無かったことにされてしまいます。

 

日本人は強姦をしても悔いることはありません。ましてや相手の気持ちを思いやることなど出来ません。暴力を振るったり、強姦したりしても、それは運命のようなものであり、「仕方の無いこと」「避けられないこと」として捉え、決して自分の責任だとは考えないのです。誰にでもあることなのだから「水に流して許してくれ」というわけです。それどころか「何時までも拘るお前の方が悪い」「あなたにだって心当たりがあるでしょう、お互いさまなんですよ」と内心思っているのです。

 

さらには、「女性を強姦する体力がないのは、男として恥ずべきことである 」という、かっての文化庁長官の言葉のように、生理的な欲求の強さを却って賞賛するようなところがあります。

そうやって日本人は何度でも同じ過ちを繰り返します。失敗から学習することが出来ないのです。いつも浅い見通しや考えしか持たず、その場の直感や欲望で行動しているのです。

 

日本人と接した時に共通して感じる、時間を無駄にしたかのような空しい感じがあります。今年、日本の漫画を原作としたSF映画でキャストが来日した際には、他の国とは違い、日本人のホストの存在や暖かい歓迎は見られず、不気味にカメラのシャッター音が響く中、ゲストは二次元キャラクターとの会話を強要されていたりしました。自然で人間的な感情のやりとりが欠けている味気のない人々です。

 

映画でもよく見かけるように、日本人のコミュニケーションも実に拙いものがあります。間を空けながらポツポツと雨だれのような会話が続きます。ためらっていたかと思えば、突然大声を出したり、息急き切ったように会話に割り込みます。「唐揚げにレモンをかけるかどうか」といった瑣末なテーマで激しく議論し、三者三様のすれ違った理解のまま終わってしまったりします。また、乞食のように目の前の女性を、息を呑みながら凝視する一方で、虫けらのように女を叩きのめし、ぼろ雑巾のように相手を強姦します。自分の気持ちを一方的に押し付けたりするような、会話が成立していない状況がよく見られます。


この国は、理屈も通じなければ、何を考えているのか感情も見えないような人々で満ちています。お互いに、ただ欲望のままに酒を飲んだり女を漁ることぐらいしか共通点や喜びを見出せないのです。性欲や食欲などの本能的な欲求は強いものがあり、それを隠そうともしません。手段は洗練されておらず食い散らかし放題です。

性欲はいろいろな行動や芸術につながる要因のひとつでもありますが、日本人はこういった低レベルの欲望をそのまま、むき出しにしてしまうところに特徴があります。歳をとっても執着は強いままです。ボケているのに「若い者には負けん」とばかりに、何時までも現在の地位にしがみつき、果ては無給で働き、生涯現役を目指します。こうして若者の雇用機会を奪っています。心身ともに弱っているのに自覚が無く、クルマで若者をひき殺したりもします。

押し黙っていて意思疎通ができず、腹の底では何を考えているのか分からない不気味な人々だが、激しい欲望をむき出しにして突如行動する、こうした日本人のイメージは戦前から今に至るまで変わらないのです。