kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

残業規制のしわ寄せを受ける下請け企業

SNSで、現政権になってから労基の対策等により、大手の残業時間が減っているという書き込みを見たことがあります。

 

大企業における残業規制が厳しくなっているのは確かです。もともと日本での給料というのは、ボーナスや残業込みで、初めて人並みの暮らしができるようなものでした。大手の企業では、安価な社食や社宅、寮が完備されているうえに、基本給が高く、各種手当があり、さらにダラダラ残業することで給料を増やすことができました。問題になるほど過労状態にある社員、中間管理職は、虐められているか、便利な奴だからという理由で体よく使われている、賢いとは言えない人達です。

 

過重労働対策は何を目的としているかというと、会社側のコスト削減であるのは明らかです。ただし大手企業だと、仮に残業が廃止されても、給料増額があるから未だいいのです。また、長時間に渡って会社に縛られたくないという人には朗報でしょう。

 

大手企業としてはコストを抑えながらも生産性は大幅にアップしたい、そうして利益率を上げ、内部留保を増やしたいのです。しかし機械化やITに頼っても限界があります。どうするのか。言うまでもなく、そのしわ寄せは、下請け企業にいくのです。

 

下請け会社との契約は、働いた時間分、お金が貰える準委任契約ではなく、金額固定で、完成責任、瑕疵担保責任がある請負契約が増えています。しかもどんどん値切られています。要するに、下請けは安い金で雇われ、高いリスクを自ら背負い、仕事を完遂するまで働き続けないといけないのです。

 

大手の兄ちゃんやお姉さんが過労や過重労働で自殺すれば、それはニュースバリューがありますが、下請けのオッサンや、非正規雇用フリーランス、留学生や実習生などが、いくら死んだところで噂にもなりません。

 

「お国のために、死ぬまで働け」、これが下層民に向けられた指導者様からのお言葉なのです。

日本人は、その人の「行動」ではなく「属性」で判断する

当たり前ですが大成する人は、それなりの才能(gift)が備わっているものです。そもそも我々が産まれてから、その国の言葉を難なく喋れるようになるのも、頭の中にその原型がプリセットされているから可能なのです。

 

ところが多くの日本人は、自分の中にあるセンスや才能や良識を信じて頼ることができず、すべて他人から教わるものだと思っているのです。だから自分で新しいことを発見したり、独自のものを生み出すことが出来ずに、猿真似ばかりしています。

 

他人から学ぶものだと信じているから、ただの凡庸な人間を、「先生」や「師匠」と言ってあがめたりします。彼らの言うことを鵜呑みにして信じ込み、シゴキやイジメにも耐えているのです。メディアは、成功したアスリートなどに「努力をしたからここまで来れた」と言わせ、努力すれば夢は叶うものだという儚い幻想を庶民に与えています。

 

このような日本人は、才能ある人物を認めることができません。その代わりに、どこの学校を出たかとか、誰に師事したかということで評価するのです。

 

日本人は人を「行動」ではなく、その人の「属性」によって判断します。言い換えると、いま、その人が何の価値を生み出しているか、ではなく、どういう立場の存在であるかが重要だということです。価値を生み出している人間は、日本ではただの搾取される労働者であり、属性を備えた人間は偉そうな事を喋るだけで、あがめられる存在です。

 

日本で誰かを社会的に抹殺したいと思ったならば、問題となった「行動」を否定するだけでなく、メディアを使った徹底的な人格攻撃キャンペーンを繰り広げます。こうして、その人の「属性」を無価値にするのです。

 

こういった「属性」を身に着けそこなった人、失った人は、もはや日本では挽回のチャンスはなく、底辺を這い回る人生を送らないといけないのです。

ロボットのような甲子園球児に見る、日本の教育の目的とその成果

甲子園の開会式で、プラカードを持った女性が熱中症で倒れたのですが、甲子園球児たちは、少しも騒がず無表情のまま突っ立っているという事がありました。普通の感情と良識を備えた人間なら、すぐに駆け寄って助けるとか、少なくとも心配そうな顔をして気にしたりするものですが、この連中はまるでロボットのようです。

 

似たようなことは、甲子園球児のみならず、学校で校長の話を聞く小学生や中学生でも見られるものです。そしてここに、日本の教育の真の狙いを垣間見ることができます。子供たちは、人間としての豊かな情を持ち、正しい良識を持つ大人になることを期待されているのではなく、ただ指示通りに動く兵隊や、ロボットのようになることを目指して教育されているのです。自分で考えるのではなく、ただ指導者に言われるがままに自動的に思考し、手足を動かし、ついには期待された通りに笑ったり、悲しんだりするわけです。

 

甲子園球児の画一性は、実に気味の悪いものです。監督や審判の言う事は、どんな理不尽なイジメのような指示であっても守らなければならない。プレーする以上は意味の無いスライディングひとつとっても常に全力。ピッチャーも出来るだけ、全力で全イニング投げきる。カットでファウルを続けたり、スローカーブを投げたり、女性の歓声を受けて喜んだりしたら、高校生らしくないふざけた連中だとして国民やメディアに非難されてしまいます。校歌は直立不動で最大の敬意をもって歌わなければならないし、負けたら大いに泣き叫び、甲子園の土を持って帰る。彼ら自身も、中身は空っぽでも、無垢で一生懸命な日本が理想とする高校生を、精一杯演じているのです。

 

何が正しくて、何が悪いかを考える人間は、日本には不要です。正義を守るのではなく、社会の秩序を守る人間のみが、日本では価値を持つのです。

 

日本は官僚独裁による全体主義国家であり、国民は国家の利益の為に、最大限の労働力供与を常に期待されています。さらに日本は外国からの脅威に常にさらされていると国民に教え、誇大妄想的な軍事的、経済的膨張を今に至るまで国家の最大の目標としているのです。

為政者はなぜ悪魔崇拝者となるのか

以下はフィクションです。

ほとんどの庶民が無神論者や唯物論者である一方で、皮肉なことに、為政者達は目に見えない存在を信じています。というのも、彼らはそういった存在と実際にコミュニケーションをとり、未来を教えてもらい、時に願い事を叶えてもらったりしているからです。

 

悪魔とはいっても、その実態は「この世の神」、ルシファーです。敬虔なクリスチャンも含めて、なぜ多くの為政者は悪魔崇拝者となってしまうのでしょうか。世界的な為政者のグループに入ると、特別な存在を教えてもらえます。そしてこの物理世界のそもそもの成り立ちを含めた驚愕の物語を知るのです。

 

クリスチャンにとっては「この世の神」から示される次の事柄が大きな意味を持つでしょう。

(1)この物理世界はルシファーが作ったものだった

(2)旧約聖書に書かれているほとんどの「神」の正体はルシファーだった

(3)イエスは処刑された後、地上に復活していない

(4)これからもこの世界でのイエスの復活や再臨はない

 

これを示されたクリスチャンは驚き、イエス・キリストに応えてもらえるように祈りますが、何も示されません。その一方でルシファーとはコミュニケーションをとることが可能であり、その存在の証拠も提示されます。その結果、高位のクリスチャンであっても絶望し、悪魔崇拝者となってしまうのです。

 

このような試みに遭わない、こころの貧しい(poor in sprit)人たち、悲しんでいる人たちは、確かに幸いかもしれません。

理性的存在である人間にとって不可欠な長期記憶はどこに存在するか

人間が理性的存在であるためには、長期記憶の存在が必要不可欠です。記憶があるから自分が何者であるかが自覚でき、客観的に自省し、未来の計画を立てて実行に移すことができるのです。

 

この長期記憶が何処に保存されているのかは、はっきりと分かっていません。海馬を損傷すると新たな長期記憶が不可能になることは知られていますが、脳の他の部分を切除したら、長期記憶の一部分がごっそり消えたり、曖昧になるという訳ではないのです。

 

さて魂が不滅だという前提で、長期記憶もまた不滅であるかどうかによって、肉体が再生した場合の我々の状態はまったく異なってきます。

 

(1)長期記憶が肉体と一緒に滅んでしまうものならば、魂は継続しても自分のアイデンティティを失ってしまいます。その場合、もし次の肉体を与えられても、前世の記憶を持たない輪廻転生ということになります。

 

(2)長期記憶が魂と同じように肉体とは別の世界に存在するならば、次の肉体を与えられた場合、自身の継続性についての認識があり、それは復活ということになります。

 

もし(1)が正しいとすると、我々は死ぬたびに、前世の記憶が無いだけで、別の生命に生まれ変わるという事を繰り返しているのかもしれません。次は人間とは限らず、来世はミミズやムシケラかもしれません(笑) この場合、物理世界をつかさどる上位の生命体によって、言わば、魂が都合よく使い回されているという事になります。下位の生命体の方が圧倒的に数が多いので、今この時点、我々が人間として生まれたことは非常に幸運なことと言えるでしょう。自暴自棄に生きたり、自殺してしまうのはもったいないことです。

 

もし(2)が正しいのであれば、復活というのがいずれありそうですが、そもそも物理世界が構築されて、今に至るまで大量の魂が無駄に払いだされているのは何故か、いつまで経っても復活の見込みが無いのは何故か、という疑問が湧いてきます。

 

上位の生命体の性質が「善」であるならば、救いの希望がある(2)が、正しいと言えそうです。そして長期記憶は物理的な脳に存在するのではなく、まったく別の世界にあるということになります。