kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

世の中は正義と秩序が支配する世界へと向かっている

大きな戦争が起こるとか、寒冷期が来るとか、大地震がもうすぐ起こるとか、「終わり来る来る詐欺」がかまびすしいですが、そのような破局的な世界の終りは来ないと思われます。映画「マッドマックス2」や「北斗の拳」のような荒廃した自由な世界というのは、実は無意識的に人々が憧れを持っているものですが、それとは正反対の世界がやってきます。

それは「正義と秩序」が支配する厳しい世界です。北朝鮮や、国際的に悪名名高き、日本の中世司法、息苦しい日本のイジメ社会をを思い浮かべると分かりやすいかもしれません。じわりじわりと真綿で首を絞めつけるように人々を苦しめ、自ら死を選ぶようにする、あるいは、罪を犯すように仕向けるのです。

過ぎた正義が奨励され、人々は互いに監視し合い、密告が奨励されます。警察やお上は常に立派な人々であると洗脳されます。人工知能は公正で完璧な支配機構を実現します。そして人々は、厳しい秩序に従って毎日規則正しく生活するようになります。そのような社会に合わない不適合者は、病人として隔離され薬漬けにされるか犯罪者と認定されます。

分かりますでしょうか? 世界が日本のようになるのです。北朝鮮や中国、ソビエトが一種の実験場であったように、日本も未来を先取りする実験場だったのです。

人々を教育や洗脳によってどこまで従順にできるか、大災害や失業、貧困に対してどこまで国民は耐性を持つのか、どの程度の社会的ストレスによって人は自殺するか、人口削減に対して大人しく従うか、いざ戦争が起こった場合に喜び勇んで戦場に行く優秀な兵士となるか、毒だらけの食品や、放射能汚染された食材によって人々はどう変わるか、デマ情報によって政府は国民を思い通りに動かせるか、国は借金だらけで年金制度は破綻寸前というウソで国民から金を巻き上げられるか、円高で日本企業が繁栄するからという理由で物価を高く吊り上げられるか。

そしてこのような事が降りかかっても人々はあいかわらず、政府や役人、警察、司法、医者や金持ちを崇め続けるのか、全てが目的をもって行われ、ビッグデータが収集され事細かく分析されているのです。

日本人の特性は、新世代の統治者にとって理想的なものです。確かにある意味、日本は理想の国です(笑) しかし世界の人々が日本人的なものになればいいのであって、オリジナルの日本人が必要なわけではありません。それは誤解なきように(笑)

やがて地方において深刻な飢餓が始まる

現在、急速な人口減少が続いている日本の各地方ですが、まだ呑気に人集めを試みている地方自治体もあるようです。しかしやがてそんな事を言ってられなくなります。

自治体の財政破綻、インフラの崩壊や、スーパー、コンビニの廃店などにより、日用品の購入がままならなくなります。そして最後は食糧でさえ、手に入らなくなるのです。宅配便だってもはや来てくれません。

ジジイになってクルマの運転が出来ない、まともなクルマを購入する事が出来ない、ガソリン代も払えない、電車もバスもタクシーも無いとなったらアウトです。例え交通手段があったとしても遠距離まで日用品や食糧を買いに行くのでは、コストがかかってしょうがありません。

宅配業者への無茶苦茶な過重労働で成り立っている、現在のネット通販システムは、一部の地域を除いてやがて破綻します。そのうちドローンによって天から運ばれる日用品や食糧を皆で奪い合うようになります。

田圃や畑や漁港があっても、収穫された農産物や魚貝類は都会の恵まれた人々が食べるものです。地方の貧乏人が口にできるようなものでは無くなるのです。つまり地方における生鮮食糧の価格が上がるという逆転現象が起こるのです。

これから地方に住むことを検討している場合には、まったくの自給自足が可能である人以外は考え直したほうが良いかもしれません。

キリスト教徒は自殺できるのか

キリスト教徒は自殺できないとされています。旧約聖書に書かれている「汝、殺す無かれ」は自殺も含むと考えるのが一般的です。

また聖書に書かれている自殺の例もあまり良いものはありません。ダビデの命を狙っていたイスラエルのサウル王は戦場で追い詰められて自ら死を選びました。イスカリオテのユダはイエスを裏切った後、自殺しました。

ただしひとつだけ自ら死を選んでいい場合があります。

だれかがその友人たちのために自分の命を捨てること,これより大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)

ハリウッド映画でも戦友を守るために、自ら敵の投げた手りゅう弾の上に身を投げるとか、敵に対してスーサイド・アタックを実行するという場面がよく出てきます。これは愛に基づいた自己犠牲であり、彼らにとってキリストの精神に反するものではないのです。ただしこれを異教徒がやったら、ただのテロリストでしかありません。

日本においては、福島に赴いて「死んで応援」というのも良いかもしれませんね(笑)

遠藤周作の「沈黙」のジレンマにクリスチャンはどう対応すべきか

遠藤周作の「沈黙」という小説に、クリスチャンが直面するジレンマが描かれています。島原の乱後の江戸時代に日本を訪れたポルトガル人宣教師が、「お前が棄教するまで、他の棄教を約束したクリスチャン達の拷問を続ける」と日本の役人に脅されるのです。そして小説において、この宣教師は棄教することを遂に決意してしまいます。

さてクリスチャンはこういった場面でどういう対応をすべきなのでしょうか。答えは見殺しです。例え親兄弟や、恋人、妻、子供がどんなに残虐な拷問にあっていたとしても自分の信仰を捨てるべきではないのです。

この物理世界における人生というのはせいぜい100年程度の、束の間のものに過ぎません。それに対して信仰を捨てた結果受ける地獄の苦しみは永遠です。どうすべきか答えは明らかです。拷問にあっている他の人々が地獄の苦しみを免れるかどうかは、その本人自身の選択の問題でしかありません。

所詮、この世で親兄弟、妻や子供の関係にあったとしても、魂のレベルから言えば、ただの他人です。あるいは綺麗に言えば人間は等しくみな兄弟、姉妹であると言う事もできます。

だからこそ、この見殺しという行為に抵抗を感じる人は次のジレンマを考えてみると良いでしょう。もし拷問を受けている人が、自分がまったく知らない強盗殺人犯だったとしたら、この場合、あなたはどうしますか? 仲間や親兄弟だったら助けるけれども、赤の他人の犯罪者なら見殺しにしますか?

それこそ矛盾というものです! 人は皆等しく兄弟姉妹なのです。しかもどういう事情があったのかも知らずに他人を裁いてはいけないのです。「沈黙」という小説はいかにも日本人らしい偽善的な結末です。見かけの優しさなどどうでも良いのです。本当に大切なのはイエスを選ぶかどうかということです。

しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。(マタイ10:33)

わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。(マタイ10:37)

なぜ祈りは聞かれないのか

神を信じようとする際、最初に躓くのが、これかもしれません。なぜ祈りは聞かれないのか。

それは、イエスが磔になって現在に至るまで死んだ状態、無意識の状態であるからと考えられます。黙示録には「わたしは、すぐに来る」と書かれており、また磔になった際、イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とも言いました。しかしイエスが死んで2千年が経ちましたが、世の中は悪くなる一方です。そしてイエスが居なければ、我々は神と通信することができないのです。

では祈りは無駄なのでしょうか。そうではありません。それは自分の立場を鮮明にする意味があります。イエスの立場をとるのか、あるいはルシファーの側につくのかという選択です。その立場表明の記録となります。

また祈ることによってこの世を支配している神々が、その願いを叶えてくれるかもしれません。イエスの語った不義なる裁判官の例えのようにです。ルシファーといえども、神の是認を受けたうえで、この世を支配しているのです。

それではこの世の神々に直接祈ったらいいのではないかと言う人がいるかもしれません。そうしている人は大勢います。しかしそんな事をしたらサタンの側につくことになってしまいます。ここは重要です。

ルシファーというのは、言ってみれば意地悪な直属上司です。VPN回線があるわけではないので(笑)、祈りをすればその内容はルシファーにつつぬけです。上司を飛び越えて訴える訳ですから覚悟が必要です。祈りの内容は工夫することが必要です。しかし日依ってはいけません。ここが難しいところなのです。

彼はまた,いつも祈っていなければならず,あきらめてはならないことを,彼らにたとえで話して言った,「ある町に,を恐れず,人をも敬わない一人の裁判官がいた。その町には一人のやもめがおり,何度も彼のもとに来ては,『わたしを訴える者からわたしを弁護してください!』と言っていた。彼は,しばらくの間はそうしようとはしなかったが,後になって自分に言った,『わたしはを恐れず,人をも敬わないが,それでもこのやもめがわたしを煩わすので,彼女を弁護してやろう。そうしないと,彼女は絶え間なくやって来て,わたしを疲れ果てさせるだろう』」。(ルカ18:1-5)